東日本大震災の記憶をいつまでも忘れないために
2011年3月11日に東日本大震災が発災し、10年が経った。多くの人命や財産を奪い、大きな爪痕を残したことは言うまでもないが、重要なことはこの震災をいつまでも忘れずに、国民全員に伝承していくことだ。「施工の神様」では、発災当時、自らの危険を顧みず最前線で復旧に当たった行政機関や建設業界の奮闘を連載形式で掲載していく。
第1回目は、未曾有の渦中にありながら、孤立した太平洋沿岸の街を救うために、宮古維持出張所長として陣頭指揮を執り続けた、国土交通省 東北地方整備局 企画部の鈴木之広域計画課長に震災初動の活動について、また亀井督悦震災対策調整官(震災伝承担当)、佐々木博樹建設専門官(同)に震災の伝承活動や意義について、話を伺った。
東日本大震災発生、その時・・・
――発災時の初動対応についてお聞かせください。
鈴木之氏(以下、鈴木課長) まず、現地の道路状況を把握するため、巡回を担当する職員へパトロールの指示を出しました。その後、大津波警報が発令されたので、巡回を行っている職員が津波に巻き込まれることがないよう、「津波浸水想定区域に入るな」との指示を携帯電話で行いました。この時点までは、携帯電話の通話が可能でした。
また、大津波警報が発令されると、津波浸水想定区域の前後で通行止めを実施することと取り決めていたため、地元建設業者の方々にも協力要請を行いました。
通行止めに当たっては、2010年8月に災害支援協定を締結していた地元建設業者と大津波警報が発令した際の通行止めの担当の割り当てを決めていたため、発災当日もオートマチックに動いていただけました。念のため、担当者に確認の連絡を入れましたが、あらかじめ取り決めていた16箇所のうち、8~9箇所の通行止めは行っていただけたと思います。
――その後、大津波が来たと。
鈴木課長 宮古市役所前の交差点に設置された監視用カメラ映像を見ると、津波は防潮堤を越えて国道45号や、市役所にも達していました。その後、通信用光ケーブルが切断され携帯電話も繋がらなくなったため、通信は遮断されており、被害の詳細は把握しきれませんでしたし、パトロールに行った職員が無事戻ってくるよう、祈るような気持ちを抱いていた記憶があります。
3.11発生時の現場がどうなっていたかが分かるとても良いインタビューでした。これを教訓に出来た防災マニュアルは素晴らしいものだろうなと思います。そう思うと同時に自分の地域はどうなんだろうと不安にかられました。今シーズン想定外の大雪でさえ除雪機能が麻痺しかなり社会生活に影響が出ました。役所からの指示も苦情が出たから除雪に出てほしいという指示とは言えないものでした。現実、雪を置く場所がなく排雪作業にかからないとどうにもならない状況でした。ニュースでは今後の対応会議が~とやってましたが建設業者(除雪作業を行う会社)の意見を聞いた形跡は無かったように思います。別記事でもあったようなクシの歯作戦のようなものは見えてないような気がします。非常に不安です。もっと横のつながりを持って良いものは取り入れてほしいです。きちんと頑張らせてほしいです。