「タダモノではない感」を醸し出す男
国土交通省中国地方整備局企画部企画課で、課長補佐として働く井上剛介さんに取材する機会を得た。
実を言えば、井上さんとは、別件取材のためコンタクトをとっていたのだが、なにやら「タダモノではない感」をビンビン感じたので、とりあえず取材を申し込んだら、ご快諾いただいたという次第だ。
そういうことなので、とくにこれといったテーマ設定はなく、井上さんのアツい「生き様」を巡って、お話を伺ってきた。
原点は地元を流れる那珂川
――ご出身は?
井上さん 福岡県の那珂川市です。その名の通り那珂川が流れているまちで、子供のころは、この川でずっと遊んでいました。川の上流には南畑ダムがあって、小学生のとき社会科見学に行ったのですが、規模の大きさに圧倒された記憶があります。
高校3年生のときには、この那珂川が氾濫し、当時の町役場などが水没しました。「日々豊かな恵みをくれる那珂川がなぜ、悪者扱いされるのだろう」と感じたことを覚えています。那珂川の良さをもっと知ってもらいたい、そのためにはどうすれば良いのか。そんなことも思いました。
今思えば、このときの経験が、私の原点になっているのかもしれません。
――それで河川に興味を持ったわけですか。
井上さん いえ、当時はそこまでは考えていませんでした。高校は理系だったので、「ぼんやり工学部系に行きたいな」ぐらいに思っていただけです。センター試験が奇跡的にうまくいったので、思い切って九州大学を受けましたが、九大の二次試験で落とされました。それで、後期試験で熊本大学の工学部に受かりました。結果的には、一人暮らしできたので、熊大で良かったと思っています(笑)。
河川に触れたい
――大学でなにを学びたいというのはあったのですか?
井上さん 当時は、ぼんやりとしたものしかなく、消去法で選んだところがありました。センスがないので建築はなんか違うと思いましたし、マテリアル系も興味が湧きませんでした。そんな中で、まちのデザイン、景観というのが響きました。なんかビビッときたわけです。それで、土木系の社会環境工学科に進んだカタチです。最終的には、土木の中でもとくに河川に惹かれました。「河川に触れたい」という思いが芽生えていました。
――研究室は何でしたか?
井上さん 当然、河川の研究室に行きたかったのですが、当時の熊大には、河川の研究室がありませんでした。私が3年生のときに、新しく皆川先生という河川生態学を専門とする女性の先生が熊大に来られました。唯一の河川系の研究室ということで、皆川先生の研究室を選びました。
研究内容は、「多自然川づくり」という領域で、私は流水型ダムの研究をしていました。いわゆる穴あきダムの研究です。鹿児島県にある西之谷ダムで、生態系と洪水氾濫に関するフィールド実験などを行なっていました。毎月ヤゴを捕まえに行って、顕微鏡でのぞき込んで、ヤゴの同定分析などをしたりしていました。環境コンサルの仕事みたいな感じでした(笑)。
皆川先生はもともと、国土交通省の土木研究所で勤務していた方でした。研究室では、国土交通省の話がよく出ていましたし、国土交通省の職員の方々としばしばお会いしたり、国土交通省とのつながりは深いものがありました。
福岡県庁志望だったが、採用ゼロだった
――それが国土交通省に興味を持ったきっかけだったのですか?
井上さん 国土交通省という存在を身近には感じていました。ただ、最初は福岡市役所に行きたかったんです。親からはずっと「福岡市役所が良いんじゃないか」と言われていて、ぼんやりと福岡市役所を第一志望にしていたわけです。
しかし、「ずっと福岡の同じ職場にいるというのは、どうなんだろう」というモヤモヤはありました。私は根っからの旅行好きで、「新しい土地に行って、新しいものを発見する」ということにものスゴく興味があったからです。
仕事をするなら、川に関することをやりたかったのですが、福岡市内に流れる河川は市役所ではなく福岡県庁の管轄でした。大きな河川がないということは、河川の仕事もあまりなく、それが理由で大学3年生のころに、福岡市役所から福岡県庁に志望を変えたんです。
ところが、私が就職するとき、福岡県庁の土木職の採用がゼロだったんです。例年30名ほど採用するところ、前の年に、平成24年九州北部豪雨が発生し、臨時採用もあわせて60名採ったので、翌年はゼロだったわけです。これによって、私は途方に暮れました。再び福岡市役所を受ける気持ちにはならなかったので、大学院に進むことにしました。
公務員試験の勉強はしていたので、院試はなんとかなるというのもありましたし、九州大学の先生から「ウチの研究室に来なよ」とおっしゃっていただいたので、大学院の勉強をしていました。