土木の道”26年”。思い出の現場、仕事の魅力とは?
阪神高速道路株式会社は、今年6月から14号松原線の一部区間を約3年間通行止めにし、喜連瓜破高架橋の架け替え工事を進めている。都市高速を3年間も通行止めにする、どうも普通の橋梁架け替えとはワケが違っているようで、以前から気になっていた。
ということで、阪神高速に、喜連瓜破高架橋工事現場の取材を依頼。阪神高速の現場監督員と施工業者(JV)の監理技術者からお話を伺う機会を得た。まずは、現場監督員である阪神高速の大池岳人さんに、いろいろお話を聞いてきた。
「道路にとことん関われる」のが決め手
――土木の仕事に就いたきっかけは、なんだったのですか?
大池さん まちづくり、都市計画に興味を持っており、その中でも、人やモノを運ぶ重要な手段、インフラである道路関係の仕事をしたいと考えました。
――ご出身は?
大池さん 奈良生まれの東京育ち、高校から関西です。結果的に関西がホームタウンになりました。
――土木はどこで学んだのですか?
大池さん 大阪工業大学です。研究室は地すべりでした。今の仕事には、全く関係ありません(笑)。大学は西側が淀川に面し、東側には阪神高速12号守口線が通っている、川と高速に挟まれた立地です。就職の前年に阪神淡路大震災が発生し、物資運搬のボランティアとして被災地に足を運び、倒壊した3号神戸線のピルツ区間も目のあたりにしました。
――就活は阪神高速一択だったのですか?
大池さん いえ、ゼネコンや官公庁も幅広に検討していたのですが、説明などを聞いて、道路の計画・建設から維持管理まで幅広くできるということで、当時は公団でしたけれども、阪神高速を選びました。「道路にとことん関われる」のが決め手になりました。
昔ながらの、カラダで仕事を覚える

新猪名川大橋(阪神高速写真提供)
――阪神高速ではどのようなお仕事をしてきましたか?
大池さん 最初の配属先は1996年、建設部の池田工事事務所でした。池田線延伸部建設工事を所管していた事務所で、新猪名川大橋PC斜張橋の主塔構築、桁の張出施工、道路付属物設置工等担当しました。工事担当者として供用開始を迎えることができ、ものスゴい達成感と思い出として残っています。
――当時はけっこうスパルタ教育だったでしょう?
大池さん ええ、なかなか。「カラダで覚えろ」という感じでした。先輩、施工管理員さん、元請けさんと一緒に一日中現場を見て回り、いろいろと教えていただきました。
――夜遅くまでやることもあったわけですか?
大池さん そうですね。夜間の立会もありましたし、通常業務・それ以外でも、先輩の皆様にお世話になりました。
鉄道直下にトンネルを通すアンダーピニング工事を担当

神戸高速道路交差部の工事の様子(阪神高速写真提供)
――その後は?
大池さん 池田工事事務所の後、建設部門の積算を担当しました。2000年に計画部に移り、構造基準・線形その他幾何構造に関する問い合わせ・確認等対応や事業実施に関わる関係公共団体などとの協議・調整、環境ロードプライシングの立ち上げなどを担当しました。
その後、2002年建設部門の積算に配属されましたが、翌年、神戸高速鉄道株式会社に出向となりました。神戸高速鉄道営業線の鉄道函体の下に、阪神高速道路構造物の開削トンネルを構築する工事担当者として神戸高速鉄道に出向したというわけです。
――いわゆるトンネル工事をやったのですか?
大池さん いえ、普通の開削トンネル工事とは全然違いました。アンダーピニングという特殊な工事で、延長120mの鉄道函体を96本の仮受杭で支えながら、その下に道路のトンネルをつくるというのは、言ってみれば、鉄道函体を橋梁として扱い、密集した仮受杭の間に開削トンネルを構築するものです。まず、土に埋まった鉄道函体を掘り起こし、その下面横断方向に小さな導坑を掘り、その導坑から鉛直下方向に削孔し鋼管杭を継ぎ、鉄道函体を地盤面から杭に受け変え、その下を掘り下げた上で、道路開削トンネルを構築させるものでした。
3年ほどの出向から戻る際、建設部門での経験が続いていたことから、「次は保全部門に関わりたい」と希望を出しました。結果、管理部の改築工事グループ・調査設計グループ・保全工事グループと順に配属されました。
その後、2009年グループ会社である阪神高速技術株式会社工事部の事業所に出向しています。神戸地区の担当として、主に山側の路線の維持管理に携わりました。トンネル湧水対策・剥落対策や緊急の復旧工事・除雪作業などをやっていました。施工計画立案から工事の実施までを通して主務担当できたことは、なかなか楽しかったです。
出向から戻り、2011年、建設部門の企画課に4年ほど配属されました。大和川線建設事業に関係する工事推進に向けた事業者間調整・協議、沿道住民の方々への対応といったことを担当しました。土木的要素は少な目だったですね。
その後、本社計画部に15年ぶりに戻り、新たな料金制度への移行、淀川左岸線延伸部・大阪湾岸道路西伸部の事業化、京都線の移管に携わりました。数多くの関係者との調整に走り回っていた思い出がありますが、そこで知り合えた方々とのつながりは、とても貴重なものとなっています。
2018年、大阪管理部保全管理課に配属となり、2018年15号堺線・17号西大阪線、2019年4号湾岸線(南港北~大浜)、2020年1号環状線北行(梅田~夕陽丘)12号守口線湊町・南森町付近、2021年1号環状線南行(湊町~梅田)の通行止リニューアル工事の協議・調整などを実施しました。
またその間には、2018年の台風21号による災害対応、2019年G20大阪サミット開催に伴う高速道路の閉鎖・規制等の調整など、盛沢山でした。
――「これは大変だった」という仕事はありましたか?
大池さん 今から20年程前になりますが、業務用のパソコンが普及してきたもののその応用がなかなか効かなかったときです。首都高の各種データ・グラフ・図と阪神高速のそれを並べる際、ソフトウエアの違いからうまくデータを取り込めなかったがために、結局、素材を大阪で作成し紙ベースで打ち出した後、東京事務所でコピー機の拡大・縮小を駆使し、切り貼りや色を塗るといった手仕事で対応、翌日の会議に間に合わせるといったことがありました。なかなかキツかったですね(笑)。
おたくは偉くて現場の現状知らんやろうけど、あんたらが雇ってくる委託監督が、保身で作らせる、無駄な書類。あれ何とかしてよ。竣工検査で見ることなく終わるものばかり、、、
それと偉そうな態度。ほんまもんの発注者が偉そうにしとるのは100歩譲ってガマンするけど、なんでクソ委託が偉そうにしてんだよ