スーパーゼネコン・鹿島建設の12代目社長に登り詰めた押味至一さんは、安倍晴明(陰陽師)、香里奈(モデル)、ゆうたろう(芸人)など、錚々たる顔ぶれと同じ誕生日です。
やはり鹿島の社長になるような男は生まれたときから、何かが違うのかもしれません。そこで押味至一さんについて、ちょっと調べてみました。
鹿島建設社長・押味至一さんのことを知りたい!
鹿島建設の社長に昇進した押味至一さんの誕生日は、1949年2月21日。名前の読み方は「おしみ よしかず」と難読です。お名前からして、なんとも荘厳な響きがいたします。血液型はA型で、身長は169cm、体重82kg、靴のサイズは26cmです。カラオケの十八番は「ブルー・シャトウ」、趣味は「特になし」。
ただし、上記の情報源は2005年8月にリリースされた横浜支店報ですので、もう身長も体重も変わっているかもしれません。最近の押味さんのご趣味は、ゴルフだという情報も耳に入ってきています。
そして気になる、押味さんのご出身地はといえば、高島礼子(女優)、飯島直子(タレント)、石塚英彦(タレント)などといった数々の偉人たちを輩出している神奈川県横浜市。横浜名物といえば、崎陽軒のシウマイ弁当ですが、押味少年も崎陽軒のシウマイ弁当をたくさん食べて育ったのでしょうか?

丸和のとんかつ
いえいえ、押味さんの好物は、トマトと揚げ物です。
特に、鹿島横浜支店の近くにある「丸和」のとんかつがお気に入り。押味さんは、がっつり系の食事がお好きなようで、ラーメンを食べると「汁なし」になるという逸話もあります。かつて横浜支店長を務めていたときには、残業中の部下たちにラーメンやピザの出前を振る舞っていたという、高カロリーなエピソードも社内報で伝えられています。
鹿島建設に入社した動機は?
押味至一さんは1974年3月に東京工業大学工学部建築学科を卒業し、同年4月に就活浪人することもなく、ストレートで鹿島への入社を果たします。
押味青年が鹿島への入社を決めた理由は、映画『超高層のあけぼの』(1969年)に触発されたからだそうです。 超高層ビルの建設という1つの目標に向かって、一丸となって困難を乗り越えていく男たちの姿に憧れたんだとか……。「とってつけたような志望動機だな~」と多くの人は思うでしょうが、スーパーゼネコンの社長になった人が言っているのだから、平凡な私の考えるような軽率な志望動機とそっくりでも、うわべだけの志望動機のはずがありません。
私が最も敬愛しているサイト「Wikipedia(ウィキペディア)」によると、押味青年の進路を決定付けた映画『超高層のあけぼの』は、日本で最初の超高層ビル「霞が関ビル」の建設ドラマを描いたストーリーだそうです。霞が関ビルの施工者は、もちろん鹿島。そして、主人公のモデルは、武藤清氏(元・鹿島建設副社長)です。
『超高層のあけぼの』の製作を担当した「日本技術映画社」(現・株式会社Kプロビジョン)は、鹿島建設の<中興の祖>とも称される鹿島守之助氏(1896-1975)が、1963年に創設した会社です。なぜ、鹿島建設の会長だった鹿島守之助氏が、日本技術映画社を設立したのかといえば、その理由は、革命家トロツキーの「20世紀には成人は全て映画によって決定的な教育を受けるであろう」という言葉に影響を受けたからだったと、鹿島ホームページ内の「鹿島紀行」に紹介されています。トロツキーと鹿島、不思議なつながりです。
やはり鹿島建設の社長になる男の人生を決定づけた映画は、われわれが観るような映画とは一味もふた味も違います。押味青年にあやかって、映画『超高層のあけぼの』を観てみたいけど、「工期が迫っていてそんなヒマがない!」という方がいらっしゃいましたら、Wikipediaをご覧いただければ、おおざっぱなストーリーやキャストはおわかりいただけます。『超高層のあけぼの』には、霊界にも通じていた名優・丹波哲郎さんも出演しています。
ちなみに、押味さんは、学生時代にアルバイトで家庭教師をしており、そのときの教え子と結婚しました。押味さんは、会社人として立派である前に、生身の人間としても魅力がある、相当なやり手のようです。
予想外の鹿島建設の社長人事

鹿島建設 横浜支店
さて、鹿島建設に入社を果たした押味至一さんは、その後、横浜支店で建築現場を担当し、着実に出世街道を歩み始めます。
2003年 12月 横浜支店次長
2005年 6月 執行役員横浜支店長
2008年 4月 常務横浜支店長
2009年 4月 同建築管理本部長
2010年 4月 専務執行役員
2013年 4月 専務執行役員関西支店長
そして、2015年6月25日の定時株主総会を経て、押味さんは、ついに鹿島の12代目社長に昇格しました。
しかし、ゼネコン関係筋によると、押味社長の誕生は、建設業界の予想をくつがえす珍事だったと言います。
ゼネコン関係筋のAさんは、当時のことを次のように振り返ります。
「(押味さんは) 専務執行役員関西支店長だったけど、取締役じゃなかったから、社長候補の下馬評にすら名前は上がっていなかったよ。当時、鹿島の取締役メンバーには、創業一族が4人も名を連ねていたけど、その中でも、次の社長候補として名前が挙がっていたのは、渥美直紀副社長か、石川洋専務だったような。しかし、アルジェリア高速道路での損失や、東京電力福島第一原子力発電所事故への対応、JX日鉱日石エネルギー水島製油所での死亡事故などの問題が山積していたから、創業一族では問題解決できるかわからないし、創業一族の威信に傷を付けるわけにもいかなかった。そんな理由から、押味さんに白羽の矢がたったんじゃないかな」
また別のゼネコン関係筋Mさんは、押味さんの社長就任について、こう語ります。
「東京建築支店長の服部厚志氏も、次期社長候補として目されていたようです。しかし、ニュースでご存知のように、三菱地所レジデンスが販売する超高級マンション(ザ・パークハウス グラン南青山高樹町)の施工で欠陥工事がありました。これが販売中止になり、全面建て替えするハメになったので、服部支店長は責任を取らなければなりませんでした。当然、社長レースからも脱落しました」
では、どうして下馬評にも上がらなかった押味さんに、白羽の矢が立ったのか?
ゼネコン関係筋のAさんは、こう答えてくれました。
「ダークホースだった押味さんが鹿島の社長になれた理由?それは簡単だよ。まず人柄が良い。礼儀正しく頭を下げる。人間性だよ。それから、もう一つの理由として考えられるのは、鹿島は建築部門を強化するためだね。だから建築畑で育った押味さんを社長にしたのかもしれない」
以上のコメントは、あくまで個人的な見解ですが、なるほど、いつの時代も出世する人は腰が低く、タイミングも宜しいように思われます。
なお、押味社長が誕生した当時、鹿島創業一族には、次の方々がおりました。
◎当時の鹿島創業一族
- 取締役相談役:鹿島昭一氏 (8代目社長。4代目社長だった鹿島守之助氏の長男。東京大学卒業、ハーバード大学大学院修了)
- 副社長執行役員:渥美直紀氏 (6代目社長だった渥美健夫氏の長男。慶応義塾大学大学院修了。奥様は中曽根康弘元首相の2女、美恵子さん)
- 取締役:平泉信之氏 (政治家で鹿島の専務取締役だった平泉渉氏の長男。早稲田大学卒業、バージニア大学経営大学院修了、PHP研究所を経て、鹿島入社)
- 取締役専務執行役員:石川洋氏(8代目社長だった石川六郎氏の長男。成蹊大学卒業、西武百貨店を経て鹿島入社)
押味至一社長は「現場第一主義」
押味至一さんは、鹿島の12代目社長に内定したとき、記者会見で「現場第一主義」を抱負として掲げました。これからも“生え抜き”として、肩書に甘んじることなく、日本と世界の建設現場を牽引していってくれるはずです。現場から期待しましょう!
1968年に鹿島研究所出版会から出版された『少年の科学 超高層ビルのあけぼの』(武藤清、岩佐氏寿)は、ヤフオク! で数百円で出品されることもあります。古書即売会では100円以下の値付けがされる場合もあります。
もはや誰も見向きもしないような書籍かもしれませんが、温故知新、押味至一社長にあやかる意味でも、たまにはスマホを休ませて一読してみては?