仕事が辛いのは、あなただけの問題じゃない!【土木辞めた人、戻ってきた人インタビュー】

仕事が辛いのは、あなただけの問題じゃない!【土木辞めた人、戻ってきた人インタビュー】

仕事が辛いのは、あなただけの問題じゃない!「土木辞めた人、戻ってきた人インタビュー」

土木辞めた人、戻ってきた人インタビューVol.2  by 土木学会若手パワーアップ小委員会

土木学会若手パワーアップ小委員会の連載企画「土木辞めた人、戻ってきた人インタビュー」。第2回目は、土木学会のダイバーシティ推進委員会の前の幹事長で、土木技術者女性の会運営委員である山田菊子さん(50代女性)です。

山田菊子さんは京都大学修士課程を修了後、大手のシンクタンクに就職し、交通関係の調査研究を中心とした業務に従事しました。しかし、結婚を機に退職。フリーランスの研究員として、土木以外の調査研究に携わるようになりました。その後、小樽商科大学での研究プロジェクトで取り組んだ「人間中心設計」について、土木分野に適用するための方法に関する研究で東京工業大学の博士号を取得。現在は北海道に居を構え、東京工業大学の研究員、小樽商科大学などでの非常勤講師を務めています。

女性土木技術者の世代をユニコーン、パンダ、シマウマ、ネコなど動物に例えて説明する山田さんにインタビューし、ご自身が体験されてきた土木業界の女性の待遇の変遷や、人材が多様化する必要性について語っていただきました。


土木から足を洗う悔しさ

――まず、土木を志したきっかけを教えてください。

本当はカッコいい建築に行こうと思っていました。高校の進路指導の先生が、大学の1年目は土木も建築もやることは一緒だからと、当時は少し偏差値の低かった土木を勧めてくれました。現役で合格するとは思っていなかったので、気軽に土木に変更しました。自分の興味が一区画の中に建てる建物ではなく、面的に広がる街や、もっと抽象的な街を構成する制度のようなものだと途中で気が付きましたので、土木を選んでよかったと思います。

――就職先としてシンクタンクを選ばれたのは?

研究と名前のつく仕事をしたいと思っていました。大学には残れないと言われたので、シンクタンクを目指しました。シンクタンクのうち、そもそも採用試験を受けさせてくれ、さらに総合職で採用してくれる可能性のあった会社の中で、最初に内定を出してくれた会社に決めました。

――女性第一号だったと伺いました。

ちょうど各社で女性第一号の総合職を採用するかもいう時代でした。私が入った会社でも研究職に女性の新卒を受け入れることになりました。私の同期には3人の女性が研究職で採用され、私はそのうちの一人でした。

東京工業大学 研究員、土木学会ダイバーシティ推進委員会 前・幹事長、土木技術者女性の会 運営委員の山田菊子さん

――それまで女性がいない職場だったわけですが、職場の雰囲気はいかがでしたか。

女性に対する偏見というのは、会社にいる身近にいる人からはあまり感じなかったです。「終電まで一本勝負!」と23時から飲みに行ったり、一緒に徹夜したり、明け方に大量の会議資料をコピーしながら愚痴りあったり…。楽しく過ごしました。

――シンクタンクの業務自体はいかがでしたか。

学生アルバイトや派遣社員のアシスタント、外注先の方を率いるリーダーとして仕事を体験しました。世の中がどう動いているのかの一端を知ることも出来て、とても楽しかったです。

ただ、体力がついていかないとは感じていました。ここでは言えないくらい残業も多くて…。夜中にタクシーが会社の前に列を作っているような時代でした。

――そこで辞められるきっかけは何でしたか。

お給料も良かったし、職場で一緒に働く方々も面白い方ばかりでした。でも、体力的に続けられないかも…と思っていたところに結婚することになりました。

女性研究職の新卒採用第一号として鳴り物入りで入社するにあたり、大学の先生、会社の上司などの皆さんが色々と骨を折ってくださっていました。下手な理由では辞められません。当時会社には結婚退職という制度がありました。そう何度も使えない結婚退職というカードをここで切ろうと決めました。

――面白い職場と仕事。大変勿体ない気がしますが。

とにかく体力的に持たないと思いました。睡眠時間も極端に短かったですし。

――ご結婚以外にきっかけはありましたか。

実は入社直後の上司との面談で、「うちの会社に女性のキャリアはない」「君は将来的に部下を持たない仕事の仕方を考えてくれ」と告げられました。がっかりしました。それ以来ずっと、漠然と将来への不安をもっていました。この時期、社内の他の部門では初めての女性の海外駐在事務所長や、プロジェクトマネージャーが出現した「女性活躍のほのかな兆し」の時代だったそうです。新入社員の私には、自分に関わりのあることとは思えなかったんですね。

――私のために女性のキャリアパスを作ってくれ、というお考えにはなりませんでしたか。

その時は、第一号として求められる役割、つまり「ドアを開けてもらうこと」を果たすだけで精一杯でした。今では笑い話ですが、独身寮に入れて良いか、ひとりで国内外の出張に行かせていいか、女性もちの名刺を特別に作るか、お茶くみ当番をさせるか等で真面目な議論もありました。

最後の頃には結婚した女性の同僚が旧姓使用を巡って苦労する様子を目の当たりにしました。内線番号表は戸籍名を載せるものだ、そして内線番号表に掲載される名前が会社で使う名前であり旧姓は使えない、と。それに抵抗して苦しむ彼女を見るのはとても辛いことでした。

そういう諸々のうちいくつかの課題は片付けました。片付ける気合を持って第一号として入ったわけですけれど、辛い経験が積み重なると、例えば結婚とか他の仕事のオファーがあった時に、辞めるという選択肢が現実的になってきますね。第一号の方で今も続けている方は本当に大変だったと思います。お話しされないけど、すごく辛いこともあったのではと想像します。

――その当時は土木業界以外もそのような雰囲気があったのでしょうか。

同期の2人の女性研究員も、大学時代の友人も、多かれ少なかれ同じ状況でしたので、土木だけではなかったと思います。

――それまでのキャリアを捨てることに悔しさはなかったですか。

それは悔しかったです。修士課程修了の時に大学に残れなかったのも悔しかったのですが、自分の意思で仕事を諦めるには、言い訳が必要でした。だから、もう土木はいいやって自分に言い聞かせました。


土木が女性を拒絶した時代

――最初は就職ではなく大学での研究を希望されていたのですね。

大学時代は、交通行動を確率モデルで表現し分析する研究をしました。研究の楽しさを経験して出来れば大学に残りたいと思っていました。でも、その時に「まだ女性はちょっとね」と言われました。

――企業への就職活動にはそういったイメージがありますが、進学も難しかったのですか。

当時、博士課程に進学するのは留学生だけで、助手になるのが通常のルートでしたので。また、ある方から「うちの大学はまだ女性の助手は無理だ」と言われました。公式見解だったかどうかは不明ですが、当時の私は割と素直に「ああそうなのか」と思いました。今だったら闘っちゃうと思いますけど。

――大学に残れないとなってからの、企業への就活はいかがでしたか。

門戸は全然開いていませんでした。当時の大学には学校推薦という制度がありました。各社から学部は何人、修士は何人と打診があるのですが、女性は取りません、ということは明示的にも言われていました。

就職情報誌、通称「電話帳」は私も含めた理系の女子学生には届きませんでした。この電話帳というのは、各社の情報と資料請求ハガキがまとまっている分厚い冊子です。それが理系の女子学生には来なかった。男子が余らせたものを恵んでもらって、残りの中から探す、そういう時代でしたね。そういう暗黙の拒絶のメッセージと、明確な拒絶のメッセージの中で、「自分を採用してください」と働きかけることは精神的に非常にエネルギーの必要なことでした。

採用の過程でも、毎回、毎回、この次はどうだろうって思っていました。今は違うと思いますが、昔の試験官は本音で話す方が多かったので、「他の女性の手前もあるので、最初の2~3年は事務職として働いて欲しい」と言われることもありました。

――常に、理不尽な圧力がかかった状態だったのですね。

こういうのは子供の虐待と同じだと思います。小さい頃から、女子はあれもダメ、これもダメ、女子は能力がないでしょ、ないよねと言われ続けていると、何となくそうなのかなって刷り込まれてしまう。「君が総合職で就職したら、一人の男子がその職につけなくて泣くんだよ。それでも就職したいの?」って。そういう繰り返しですよね。


女性土木技術者の歴史はユニコーン、パンダ、シマウマ、ネコ…

――今、女性技術者はどんどん増えてきていますが、当時と比較していかがですか。

私たちの世代は女性扱いされるのを嫌がってきたと思います。男も女も同じでしょう、男として扱ってください、女性として扱ってくれるなと常々言っていました。「私の中身は男ですから、私に女性の意見を期待しないでください」と発言されている方を見ると、しばらく前の私を思い出します。「受け入れてもらうには男になる必要がある」ことを経験してきた世代だと思います。

――現在は「女性ならではの視点」など、過剰に女性扱いされるのに違和感はありますね。

早稲田大学の谷口真美先生の「ダイバーシティに対する企業行動」のモデルをご紹介します。企業が違う種類の人を受け入れる過程のモデルでは、まず初めは「拒否」、続いて「同化」、次が「分離」、最後が「統合」があります。

――最初の拒否はわかりますが、同化、分離、統合とはどのような状態でしょうか。

初めの拒否は「女性はうちの組織には不要です」ですね。続く同化は「男になるならいていいよ」です。次の分離は「女性の特徴(そんなものがあるとして)に期待して女性を取ろう」です。今の土木業界がこの段階ですね。最後の統合は「多様性が面白さを生むから来て欲しい」です。まさにダイバーシティですね。

――なるほど。会社に勤務されていた頃は拒否の段階でしたか。

私達は同化することで生き残らせてもらえた世代ですね。先ほど紹介したように、いつも「私の中身は男です、特別扱いしていただかなくて結構です」と主張していました。でもこれを次の世代に言ってはいけないなと思います。

――次世代に言ってはいけないと思われたきっかけはありましたか。

土木技術者女性の会、土木学会などで若い世代とお付き合いする際に気づきました。男性のようにふるまい、自分の奮闘した体験を必要以上に強調すると、「男性のようなスーパーウーマンでなければいけない」という、後に続く方々を蹴落とすようなメッセージを発信していることになります。これはいかんと思いましたね。

――まだまだ女性技術者に「男らしさ」を求める部分がありますね。

私の場合は年齢を重ねて「おばちゃん力」が付いてきていました。この能力を活かすために、自分が男性じゃなくて良かったなと思っています。「あめちゃん、食べる?」って言えるおばちゃんは性別も世代も肩書きも国籍も超えられます (笑)。

――女性技術者の、業界内での立ち位置も時代とともに変わってきているのですね。

女性土木技術者の世代を、最初はユニコーン、次がパンダ、続いてシマウマ、最後がネコと説明しています。ユニコーンというのは伝説の存在ですね。見たことがあるという人もたまにいる、珍しい存在です。次はパンダで、1990年代に入社した各社の第一号です。特別な動物園に行くと見られるかもしれない存在で、愛くるしい宣伝役です。次のシマウマはたいていの動物園にいます。2000年代の各社の定期採用が始まった時代に入社した方々ですね。そして2010年代になると各社が毎年女性を採用するようになる。その時代に入った方々をネコの世代と呼んでいます。

――ユニコーン世代は、具体的にあの方達かなと思い浮かびますね。

そうでしょう!ユニコーンの世代は数えられるほどしかいません。各業種にひとりいるかいないか、いないかもしれない。でも業界の人は皆知っていて、飲み会でならお目にかかれるかもしれないという…。バリバリのスーパーウーマンです。

――なるほど。パンダ世代はいかがでしょうか。

パンダ世代は1990年代入社の、現在50歳代くらいの方たちですね。土木技術者女性の会の仲間にも沢山います。この世代で転職しないで済んでいるのは行政機関にいらした方が多いですね。当時の女性技術者は、採用試験の門戸を開けてもらうよう戦い、採用され方で戦い…という感じでした。総合職と一般職の間の、会社によって名前は違うと思いますが、専任職と言われる立場で働いている方もいました。

――続いてシマウマ世代、ちょうど30~40代でしょうか。

シマウマになってくると、ユニコーンやパンダほど採用され生き残るための難易度が高くはなくなってきますが、それでもまだまだ条件が必要ですよね。とは言っても、シマウマまでの世代は数が少ないので自分がロールモデルだって言い切れる強みもあります。「私のやり方はこれですから」「当社の女性技術者のやり方はこれですから」って言い切れる。シマウマの世代はそうやって自分のやり方を主張して、生きやすくしていったらいいと思います。

――そして最後にネコの世代ですが。

そしてネコの世代になったら、ゆるいのものんびりしたのもキリキリしたのもバリバリも全部いるようになる。我々が「ゆるキャリでもいいじゃない」って言うためには、このネコの世代を増やしていかなくてはならないです。ネコの世代が主流になったら主張できるようになると思います。そしていずれは、女性技術者は「ヒト」と呼ばれるはずです。

――ネコの世代になると、皆が働きやすい時代が来るでしょうか。

ネコの世代の女性技術者が中堅の年齢になる頃には、業界には色々な属性の方がいることが特別ではなくなっていると思います。業界の中に、女性に限らず多様な存在がいることが当然と受け止められるようなれば、それぞれの方々の働きやすさの問題も認知され、苦しい人も減るのではないでしょうか。そしてその時に、過渡期に繋ぎ止められず辞めていった人達を、私たちは忘れてはいけないと思います。


土木業界のダイバーシティ

――ご自身が退職されてから、土木との関わりはなくなってしまいましたか。

仕事は続けていましたが、気持ち的には土木をすっぱり切っていました。特に大学の同級生や研究室のお付き合いを避けていました。30代は皆面白そうな仕事をしていて、私以外のすべての方が活躍しているように思えました。この時期は、退職したシンクタンクの関西支社と嘱託契約を結び、土木とは関係のない分野の仕事に関わる機会をもらいました。

――そこから、どのような経緯で再び土木に携わられることになったのですか。

札幌の小さなシンクタンクに勤務していた時、あるプロジェクトで、ソフトウェアエンジニアのための人間中心設計、ユーザビリティの教育に関する業務を担当しました。勉強するうちにその内容が土木分野にも適用可能で、そしてこれは誰もやっていないことだと気付きました。その時、私が今までやってきたこと、土木業界の仕事の進め方とか、土木分野での研究動向とか、そういう経験や知識が非常に役に立ちました。土木に関する何もかもを、とあえて封印することはないなと気付きました。

――培った経験は色褪せなかったのですね。

土木業界の常識といったものが変わっていなかったということですね。自分の中にあった「土木の基礎」は変わっていませんでした。物理法則と同じで、基本は変わらないのだと実感しましたね。

――そこで土木と再び繋がったのは運命的なものがありますね。

「土木から足を洗いました!」なんて言っていましたけど、土木技術者女性の会も、土木学会の会員も続けていました。2006年ごろに土木学会の男女共同参画の委員会に委員として来ませんかというお話もいただき、20年ぶりくらいで四谷の土木学会に伺ったあたりが土木に復帰した時期でしょうか。

――そういったご経験から、土木を辞めた若手が、将来やっぱり土木に戻りたいと思ってくれるためにどうしたら良いと思われますか。

土木業界のみなさんは、「戻りたいなら戻してあげる」ではなくて、「戻ってくる人がいるかも!」という前提で、ウェルカムな姿勢を示し続けることが大切だと思います。決してネガティブな姿勢を出してはいけない。今までのような、「女子は取りません」とか「経験何年以上じゃないと取りません」「一日何時間以上、残業必須」という数々のネガティブメッセージを発信しないことですね。

――具体的にはどのようにしていけばよいでしょう。

特に組織トップの方々にお願いしたいことがあります。「少しの間でもご一緒した方は、今でも仲間ですよ」と言っていただきたい。私のいたシンクタンクには辞めた人を「卒業生」と呼ぶ文化があります。私も今でも昔の同僚とのおつきあいがあります。また、大学の仲間も、今どこで働いていても、専業主婦であっても仲間だよって受け入れてくれます。私から距離を置いた時期はありましたが、蓋を開けてみたら、「なんだ、大丈夫じゃん!」でした。そういうメッセージを受け入れる側から出していただきたい。「戻ってきたいなら入れてあげる」ではなくて、「戻ってきて欲しい」「いつでも待っていますよ」「用意はしていますよ」と。

――今、組織や土木業界としてそういった取り組みはないですね。

それが土木業界全体としての取り組むべき仕事じゃないかと思います。お辞めになる方はみなさん、個人の問題だと思っていますが、実は複数の組織に共通する問題もあります。再び「個人の問題は解決していませんが戻る気ありますか」では戻りたくても戻れません。受け入れたいという姿勢を、公式にも非公式にも出してほしいですね。

――確かに、このままでは有望な若手を土木以外の業界に取られてしまいます。

戻りたいと思って、元の会社と初めての会社とどちらにしようか迷ったとき、元いた会社の方が組織の文化、歴史などを知っているなどのメリットがあるけれど、初めての会社の方が「ウェルカムです!」と言ってくれていたらどうするかということですね。今、業界は人手不足なのに、ウェルカムであるという意思を示さない理由はありません。

――戻ってきても、「あいつは一度土木を捨てた奴だ」って言われないか心配です…。

今は言う方がいるかもしれませんが、多様な経歴の人達が出たり入ったりするのが普通になれば、気にならなくなるのではないでしょうか。そうなるように働きかけていきたいですね。今は1社で駄目だったらもう土木を諦めるしかありません。

土木技術者女性の会では、今どこに勤めているかとか、働いているかは関係なく、土木に関わりがあると思っている方なら誰でも歓迎です。土木学会でも同じです。この状況が企業などにも広がって欲しいです。


土木業界で「変えてはいけないもの」は少ない

――辞める前の、組織の中で辛い思いをしている人達に出来ることはあるでしょうか。

私が悩んだ当時、先輩が欲しいなと思っていました。色々な問題をもう少し一般化して考える手助けをしていただけたのではないか思います。今、辛い思いをしている方に対し、組織の内外の方が、ご自身の通ってきた悩みを一般化して教えて差し上げると、いいのではと思います。

――仕事をする上での問題であれば、個人だけの問題ではないですからね。

真面目な人ほど、「私が出来ないから採用されない」「私が弱いから徹夜すると辛い」「私がダメだから…」と、個人の問題にしがちですよね。勿論、能力と仕事のマッチングがうまくいかない部分もあるとは思いますが、そうじゃない部分もありますよね。

私の場合、長時間の勤務も辞める決断をした理由ですが、ちょっと立ち止まって考えてみたら、そもそも働き方自体がおかしかった。そういった数々の問題を、一緒に考えてくれる先輩がいたら良かったなと。

――その先輩の立場を、業界全体で担っていきたいですね。

土木業界の若い方に会う機会が多いので、「あなたの会社ではそれが常識かもしれないけど、それは世間の常識ではないよ」と言うようにしています。私の仕事だと思っています。

――若い人が組織の常識に息苦しさを感じても、まだまだ常識を変えるのは難しいですよね。

土木の仕事で守るべきものは何かというと、まず安全、品質でしょう。それ以外に本当に変えてはいけないものは少ないと思います。ある建設コンサルタントが期間限定で始めた「ノー残業デー」も、今では建設コンサルタント業界や建設会社にまで広がっています。常識は変わります。

――土木を辞めた方にメッセージを伝えるとしたら。

何かを決断されたことに敬意を表します。よくやりました。でも、その決断に捉われず、しなやかに次の判断を重ねていただきたい。もし、あなたがご自身のせいだと思って辞めたとしても、実は個人の問題ではなくて、多分に業界全体の問題でもあったかもしれないよ、と伝えたいですね。

――当時のご自身に伝えたいことはありますか。

辞める決断をしたから今に至るわけですが、それでも勿体ないことをしたなと思います。当時の私には、その後のあなたは、その経験を無駄にはしなかったよと伝えたいです。

多少なりとも長く生きている私達は、過去の自分や周りの経験を振り返って、目の前の若い人に言えることが沢山ありますよね。それを個人の範囲だけでやるのではなくて、皆で共有し仕組みや意識を変えられたらいいですね。これから、この業界の常識が良い方に変わると期待しています。

――ありがとうございました。

「土木辞めた人、戻ってきた人インタビュー」後記

山田菊子さんは、ご自身の経験から土木を広い視野で捉え、私達と一緒に土木の未来を考えてくださる素敵な先輩です。男女を問わず、日々の業務に疲れて「土木のドの字も見たくない」時、山田菊子さんの論説を読むと救われる気がします。

大企業のトップ、輝くドボジョ、活躍する若手技術者…そんな眩しい成功例ばかりが報道される中で、自分の土木人生を見つめる時、山田菊子さんの生き方は参考になるかもしれません。

山田菊子さんの論説「まわり道のキャリアも支える土木学会に」http://committees.jsce.or.jp/editorial/no111-1

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