祖父のいまわの際に「家業を継ぐ」決意固める
「安心して、逝ってくれ」。木村社長が高校生の頃、初代社長だった祖父が他界。いまわの際に立ち会ったとき、「家業を継ぐ」ことを決心する。「土木工学科ならどこでも良い」ということで、北海道大学工学部土木工学科に進学。主に土質力学を学んだ。
大学院修了後、東京の鉱研工業株式会社(東京都豊島区)に就職。家業と取引関係のある会社だ。社長同士の間で「息子を勉強させてくれ」という話ができていた。
鉱研工業では、技術者として関東近郊の現場仕事などを経験し、普通は社外秘である原価管理の仕事も任された。「普通は見れないものをいろいろと見せてもらった」と感謝する。
会社は3期連続赤字、20代の技術者もいない
エス・ビー・シーに戻ったのは26才のとき。社員を見渡すと、その多くが40才以上。「若い人間がいない」と衝撃を受ける。「このまま10年経てば、ちゃんとバトンタッチできない」ことに恐怖すら感じたという。
「このままではいかん」と、社長に直談判。「景気が悪いときに人を入れるのはムリ」とたしなめる社長に対し、「景気が良くなっても、このままでは会社は潰れる」と反論。その年以降、若手採用を開始させた。
帰還した時は、エス・ビー・シーは3期連続赤字の真っ只中。内部留保が半分になり、国税庁から査察を受けた。取引銀行からは「これで事業やっていけるんですか?」と聞かれた。赤字の原因は、長年の「どんぶり勘定」。「業務単位で予算を組む。基本的な仕組みすらなかった」ためだ。2年をかけて、組織変革に取り組み、翌年には黒字転換を果たした。
2010年に民主党政権が誕生。その影響で、2011年には売上げが半分ほどに激減した。「社長になってから、この年が一番キツかった」が、経常利益は黒字を確保した。「これなら社長をやっていける」という自信が得られた年でもあった。