高卒からの一級建築士に一発合格
――その後、高卒で一級建築士の資格を取得されたんですね。
磯﨑 当時、社内でも一級建築士を取得しているのはほぼ大卒者でした。私の場合、一級建築士を受験するには、まず3年の実務経験を経て二級建築士を取得し、それから4年の実務経験を経て受験資格を得なければなりませんでした。つまり、受験資格を満たすだけで最短でおおよそ8年掛かります。つまり、26歳で受験資格を満たすわけです。
この期間、一級建築士を取得するまでは、結婚しないと決めたり、試験ボケもしないように宅地建物取引士を取ったりしながらモチベーションを維持して、結果的に26歳で一発合格することができました。
この翌年には、1級建築施工管理技士の資格も取ることができ、設計と施工で最も難しい資格を両方取れたので、会社を退職しました。
――退社後はすぐに独立されなかったんですね。
磯﨑 ええ。一級建築士の資格を取得した際、元勤務先の本社から社内報に掲載するための取材がありました。
取材後のライターさんとの会食で、会社を辞め、視野を広げたい気持ちを率直に話したところ、そのライターさんから、「それなら青年海外協力隊で海外へ赴任されては?」とお話をいただいたんです。
調べて見ると、建築分野でも募集していました。仮にその時に独立しても人脈は元勤務先しかないですから、下請けになる可能性が高く、それも面白くないなということで、思い切って応募しました。
――青年海外協力隊ではどちらに赴任された?
磯﨑 ミクロネシア連邦とブータンです。海外で新たな建築技術の知見を得ることは少なかったですが、建築業界とは異なる人脈、多様なモノの見方、歴史認識、さまざまな考え方や暮らし方などを体感することができ、それが現在の起業にも役立っていると感じます。
青年海外協力隊を終えた後は、お手伝いというカタチで、岡山県のある建設会社に起業の準備も含めて入社しました。それから1か月もしないうちに、驚いたことに元勤務先が民事再生しました。
――ゼネコンの倒産ラッシュが続いていた時代でしたね。
磯﨑 元勤務先は、財務が健全で大丈夫だと思っていましたから、民事再生はかなりの驚きでした。当時、勤めていた建設会社の社長からは、「人が足りないので、元勤務先から人材を引き抜くことは可能か?」と聞かれ、私が在籍していた四国支店で実務に強い若手何人かに声をかけ、2人入社しました。1年後、私は起業し、その後その2人が私の会社に移り、現在に至ります。
――壮絶な人生ですね。起業当初からRC造住宅を手掛けていたのでしょうか?
磯﨑 いえ、最初の1年間はリスクを考え、他社の現場管理や、自社で請けても数百万円規模の改修工事から始めました。
岡山県では元勤務先はかなり有名で、ネームバリューが生きていたので、客先からは技術や現場管理に期待を寄せていただき、横のつながりで地域ゼネコンからRC建築現場に応援に行っていました。
リーマン・ショック後にRC造住宅分野に参入
――転機はどこにありましたか?
磯﨑 リーマン・ショック後に、建築業界に大不況が訪れましたよね。私の地元でもハコモノ建築計画が一切なくなり、ほんの少ない仕事をお互いにダンピングし、取り合う状況が続きました。利益が立たない状況が続き、型枠大工などの職人もかなりの数が廃業を余儀なくされました。
国は住宅ローン減税など、住宅建築の活性化に動いていました。当時、ビル建築一本でやっていましたが、リーマン・ショックでその危うさを思い知らされ、「BtoB」と「BtoC」の仕事を両方手掛けないと数字的には安定しないと考えるようになりました。
ただ、個人のお客様から仕事を取るという営業活動をしていなかった。しかも、岡山県でも、住宅建築業界はハウスメーカーからビルダー、工務店と競合他社は山ほどあります。
もし、彼らと素手で戦っても、返り討ちに遭うだけです。そこで当社のスキルで十分に戦える場所は、RC造住宅と決めたんです。
元勤務先でもRC造住宅を建てていましたが、社長や医者の家が多く、総工費は1~2億円ほどでした。ただ、30坪くらいの住宅でも、コストを下げればRC造住宅で十分勝負になります。
とはいえ、当初はPRしても集客に苦労しました。
――住宅と言えばほとんど木造ですから、困難も想像できます。
磯﨑 岡山県では、RC造で住宅を建設する業者がほぼいなかった。仮に、地域ゼネコンがRC造住宅を手掛けるにしても、自前のプランを持っていないため、価格が高くなるんです。そもそも、地域ゼネコンは住宅を手掛けるという概念がほとんどありませんですからね。