国土交通省は9月1日に関東大震災から100年の節目を迎えることを踏まえ、8月28日に東京ビックサイト国際会議場で「関東大震災100年シンポジウム~関東大震災から学ぶ今後の都市・インフラ整備~」を開催した。
1923年9月1日に関東大震災は発生した。大きな揺れは住宅を押しつぶし、炎は都市を焼き尽くし、死者・行方不明者は推定10万5,000人、住家の被害棟数は被災地全体で37万以上に上り、近代化した日本の首都とその周辺に甚大な被害をもたらした。
そこで被災の復旧・復興に立ち上がったのは後藤新平だった。震災発生の翌日に発足した山本権兵衛内閣では、この日のうちに、復興事業を担う特別な機関である「帝都復興院」の設立に動き、内務大臣や東京市長をつとめていた後藤が帝都復興院の総裁に就任した。
帝都復興でつくられた橋梁は今でも隅田川橋梁群で重要な社会基盤としての役割を果たし、計画された公園は今でも憩いの場であり、有事の時には避難場所や緩衝緑地として機能する。また、この時に整備された区画が現在の首都東京の基盤になっている。
今年は関東大震災100年を迎えているため、防災力向上を目指し、各所で関係イベントを開催中だ。現在、南海トラフ巨大地震、首都直下型地震発生も懸念されている中、関東大震災でなにが発生し、都市やインフラ整備の観点から改めてもう一度考える機会が必要だろう。今回は、同シンポジウムで斉藤鉄夫国土交通大臣が主催者あいさつで語った内容と、武村雅之名古屋大学特任教授の講演「関東大震災がつくった東京 100年後の変容と首都直下地震」についてリポートする。
震災により建築物の耐震基準が世界で初めて定まる

斉藤国土交通大臣の父は、東海道線の丹那トンネルがつぶれて通れなくなったことで、故郷へ戻るのに難儀をされた経験を持つ
シンポジウムでは、斉藤鉄夫国土交通大臣の挨拶から始まった。
「国難ともいえる関東大震災の復旧・復興に当たっては厳しい財政状況などさまざまな制約や困難があったものの、帝都復興院の復興計画のもと、土地区画整理計画をはじめ道路、橋梁、街路、公園、港湾整備を着実に進めた。この時整備した近代的な公共施設により、現在の東京の街並みが形成された。また関東大震災の甚大な被害を受けて翌年には、建築物の耐震基準が世界ではじめて策定された。
国土交通省は、1995年の阪神・淡路大震災や2011年の東日本大震災などの教訓を踏まえ、住宅や供給インフラの耐震対策、延焼危険性や避難困難性が特に高い密集市街地域の解消、津波避難施設の整備などの地震対策に取組んできた。
政府は2023年7月に、新たな国土強靭化基本計画を定め、国民の生命と財産を守る防災インフラを整備・管理を戦略的に推進することとしており、引き続き防災・減災の取組みを着実に進めている。
本シンポジウムでは関東大震災以降の取組みや課題への理解を深めていただくとともに、迫りくる首都直下地震などの巨大地震に備え、一人ひとりがまちづくりについて考えていただく良い機会になるものと考えている」
このシンポジウムでのあいさつの後、隣接する東京臨海広域防災公園で災害対策施設と関東大震災特別企画展を視察している。ちなみに、国土交通省は、「総力戦で挑む防災・減災プロジェクト」では「首都直下地震等の大規模地震対策の強化」というテーマを掲げ、発災時の被害を軽減するための施策を推進している。
「品格ある街」を目指し、帝都を復興へ

講演した武村雅之名古屋大学特任教授
続いて、武村雅之名古屋大学特任教授が、「関東大震災がつくった東京:100年後の変容と首都直下地震」をテーマに講演を行った。
武村氏は2023年5月に『関東大震災がつくった東京 首都直下地震へどう備えるか』 (中公選書)を執筆したばかり。同書では、江戸という町の発展と震災後の帝都復興をたどれば、見えてくるのは都市計画の果たす役割の大きさだと指摘。一方、科学技術が進んだことが、新たな問題を生んでいるとも考察し、現在の東京が抱えるさまざまな問題を明示し、都市の在り方を考えた名著だ。講演では同書の内容をもとに進めた。
関東大震災の震源地は神奈川県であったものの、東京市(当時)に火災が広がり、結果、東京市が最大の被災地となった。これは明治維新以降の産業都市化政策が都市の基盤整備をしないままに、軟弱地盤上に人口を集中させた点に起因する。

武村教授の『関東大震災がつくった東京 首都直下地震へどう備えるか 』(中公選書)
当時、東京市民は関東大震災後、二度とこのような大災害に見舞われたくないとの想いのもとに立ち上がり、帝都復興事業計画を推進。事業の特性として、耐震・耐火を前提に国民的合意の下で公共性を第一とし、首都として恥ずかしくない品格のある街という方向で街づくりを進めた。大正天皇は発災直後の9月12日に、「帝都復興に関する詔書」を発し、「一企業一個人が儲かるような話はしない。この復興は市民一人ひとりのためにある」という内容を明記している。こうした国の復興の動きに市民の合意が得られ、復興に動き出した経緯がある。
後藤新平の理想と井上準之助の現実
帝都復興院の総裁に就任した後藤新平は、当初の案では30~40億円という当時では途方もない金額を構想したものの、結果的に提出した予算は15億円だった。ただし後藤案では、都市計画のみで復旧事業は含まれないなど問題点もあった。結局、井上準之助大蔵大臣が「今後、どのくらい国債を発行できるか」など落としどころを検討した。これは一般財源で国債の利率が払えなければ雪だるま式に国の借金は膨らみ、最終的には破綻するため、それは避けたいと考えたためだ。そこで国債発行限度額を15億円とし、そのうち6億円を復旧費とし、火災保険見舞金貸付を2億円、残り7億円を帝都復興事業予算とする井上蔵相案を提案。政党の党利党略により一時は4.7億円レベルまで減額されるものの、井上の奮闘により東京や横浜の市債も含めて7億円の復興事業が実行されることになった。

帝都復興事業予算 / 出典:武村教授作成
復興事業でのポイントは土地区画整理だった。この土地企画整理を実施できた根底には、「市民のため」という理念が明確にあったからだ。中央通りを除いて都市部のほぼ重要な幹線道路は、この関東大震災の復興事業を機に次々と完成していった。
具体的な道路整備では、第1号幹線「昭和通り」と、第2号幹線「大正通り(現・靖国通り)」の2つの通りを基準としてそれぞれに並行する形で道路が計画された。国の事業として幅員22m以上の「幹線街路」52本が、東京市の事業として幅員11mから22mの「補助線街路」122本を整備。その他区画内の道路なども含め、整備された道路の総延長は750kmにも及ぶ。
隅田川の復興橋梁10橋は現在も現役
街路設計には、「将来、地下鉄を通す可能性のある道路には、幅員を27m以上にすること」という規定もあった。現在、東京の地下鉄が通る道路には都営大江戸線を除き、ほぼこの規定が該当している。このほかにも21項目という非常に細かい規定を設けている。戦後、東京の地下鉄はさまざまな路線で増幅されたが、これは当時、帝都復興事業を計画した方々の先見の明があったことを忘れてはならないだろう。
橋梁では、耐震・耐火を配慮した点は言うまでもないが、「美観」も重視している。方針としては、耐震・耐火構造の徹底とともに、「壮観ではあるが浮華軽薄なる装飾を避けて、見あきのせぬ明るい感じを出すことに意を用い、親柱、欄干等の意匠に就てもなるべく目ざわりにならぬ様、且つ空の眺望を妨げざる様、細心の注意を払う」との方針を打ち出し、修繕補強の194橋を含め、全部で576橋を架橋した。ちなみに隅田川の道路橋のうち復興橋梁は、10橋で今も現役で活躍、永代橋と清州橋は国の重要文化財に指定されている。

永代橋
公園建設では、国は3大公園(隅田、錦糸、浜町)を、東京市は52復興小公園を建設した。この52復興小公園は、学校に隣接して建設し、学校の狭さを解消しつつ、また児童が利用しない時は、一般市民の憩いの場となるよう、モダンで夢のような空間を与えるシンボルとして造られた。
さらに、復興小学校の中には泰明小学校(中央区)、常盤小学校(中央区)、九段小学校(千代田区)、黒門小学校(台東区)、旧十思小学校(中央区)、旧小島小学校(台東区)と今も現役で活躍している復興小学校もある。これは当時、未来を担う小学生に対して、社会がバックアップをしなければならない姿勢がうかがえる。

泰明小学校
第二次世界大戦後、東京は再び巨大地震に怯える都市に”転落”
しかし、武村教授は第二次世界大戦後の問題点として、まず高速化の弊害を挙げた。空襲から生き残った震災復興の遺産である公園、橋、水辺が高速道路で破壊され、東京は都市としての品格を失い、現在に至ると批判した。また、日本橋川は首都高速道路の通り道になり、江戸橋の中柱は無残に切り取られ、昭和通りの緑地を消失した点についても批判した。

東京五輪に間に合わせるため、日本橋は首都高速道路に覆われた
2番目の問題としては郊外に木造密集地の形成を許してしまった点についても指摘した。1932年に現在の23区に街を広げたが、明治時代と同じように都市の基盤整備を怠ったために、東京に人口が集中。今度は郊外に再び地震危険度が高い木造密集地を抱えることとなった。
最後に整理すると、今や東京は再び地震に怯える都市に転落することになった。その理由として、「郊外の木造密集地域の形成」「戦後地盤沈下の放置で大規模なゼロメートル地帯の放置」「首都高速道路の水辺破壊」「都心部の容積率緩和による高層ビル乱立」「湾岸埋め立て地域の高層住宅の孤立問題」を挙げた。
戦後日本は関東大震災の復興時のような地震に強い街づくりや首都としての品格は二の次で、経済成長を目指してきた。そのつけが回り、現在の東京は再び地震に弱い街となったと総括。そこで、関東大震災発生100周年を迎え、大震災後の復興事業の理念を思い起こし、今こそ東京を地震に強い街へと造り替えなければならないと強く提案した。