昔の浄化槽を直せる業者はほとんどいない
――林工業についてお聞かせください。
林 現場打ちの浄化槽を作る仕事に従事していた父が昭和38年4月に設立しました。以来、平面酸化型浄化槽の築造を皮切りに水のインフラ整備事業に携わり、近年は一般土木工事や建築工事も手掛けています。
今も主力は水処理プラント複合工事や浄化槽工事など、水関連の工事ですが、弊社の場合、FRPのカプセルを置くだけの最近の浄化槽工事だけでなく、今から約50年前の昭和40年代に主流とされていた、現場を掘ってコンクリートを打つ平面酸化型浄化槽工事のノウハウを持っているのが一番の強みです。
下水が通せない地区、例えば農家の集落にある昔の浄化槽の修理やメンテナンスができる業者が広島はもとより、中国地方にもほとんどいないんですよ。
先日も、尾道で古民家を改装してホテルを建設する案件で声が掛かりました。“坂の街”と呼ばれる尾道市は平地が少なく、山肌に住宅や寺が密集することから、下水が通せない地域であり、従来の浄化槽を改修するしかないからです。
道も狭く車やレッカーが入れないので、資材を積んだキャリーカーを押して階段を上るのに苦労しましたが、こんなニーズに対応できるのはウチだけだと思います。
――家業を継ぐのは昔から決めていましたか?
林 とんでもない。私は幼稚園から小・中・高と、とにかく野球ひと筋でプロ野球の選手になることしか頭にありませんでした。たまたま中学時代の野球部の監督が広島では強豪とされる県工(広島県立広島工業高等学校)OBで、「林は家も土建屋なのだから」と土木科のある県工への進学を薦められたんです。
入学後は、打撃が自慢の内野手として練習に励みました。私の代は甲子園にも出場したのですが…。高校2年の時に手首をケガして手術することになり、自分の出場は叶わず、野球も諦めなくてはなりませんでした。
子どもの頃からの夢を絶たれ、目の前が真っ暗でしたね。それまで会社を継ぐことなど考えてもいませんでしたが、もう野球はできないし、高校を卒業してやむなく家業に就くことになりました。結果的には、県工の土木科に進んでいたのが役に立ったわけです。
「人を使う側」になるには施工管理技士の取得が近道
――仕方なく入った建設の世界はいかがでしたか?
林 当時の我が社は、職人さんを含めて20人くらいの所帯で、父より年上の職人さんが番頭として現場を仕切っていました。主にPCタンクの躯体なんかを作っていたのですが、入社するとすぐに現場に出されました。
今と違って雑排水は川へ流し、トイレの水だけを通していた浄化槽の修理を行うため、まさにくみ取りの便槽の中にカッパを着て入るような感じでした。吐きそうになるような強烈な臭いが充満する中での作業が辛くて逃げ出したかったですね。
しかも、「仕事は見て覚えろ!」がまかり通っていた時代なので、社長の息子であろうと特別扱いはなく、何も教えてくれません。まだ何もわからない一年生の時に、いきなり図面を渡されて「小さいのを自分でやってみろ」と処理場の大型の躯体などに付随するポンプ小屋を造らされたりしたこともありました。
負けず嫌いな性格なので、自分なりにがんばってなんとかこなしましたけど。正直なところ、仕事が嫌でした。
――素人には厳しい現場でのスタートにめげず、転機となったのは?
林 毎日、現場に通う内に、負けん気の強い自分が人にこき使われ、ひとりでは何もできないことが悔しくてたまらなくなりました。「人の下で現場作業するのではなく、早く人を使う側になろう」と思い、そのためには勉強して資格を取ることが近道だと考えたんです。
私はアルコールアレルギー体質なのでお酒が飲めず、仕事が終わっても酒でうさ晴らしできなかったし、帰宅して勉強するのが一番でした。高校まで野球三昧であまり脳みそを使っていなかったせいか、頭によく入りましたよ(笑)。
どの施工管理技士の資格も、法規までは同じ試験問題となることから、まとめて勉強すると2級建築施工管理技士と2級土木施工管理技士資格はすぐに取得できました。その後、1級土木施工管理技士や1級管工事施工管理技士も取得しましたが、設備や空調についての知識も求められる管工事施工管理技士の資格には少し時間がかかりましたね。
最初は「どうなるものか?」と戸惑った現場での作業にも次第に馴れ、技術資格を取得できたことで仕事に前向きに取り組めるようになったのは確かです。
かっこいい!こういう人になりたい!
林社長さん、素敵です。
44歳でしたら平成4年夏の甲子園ですね。その裏にそんな出来事があったとは…これからも体育会系で熱く負けず嫌いを武器に、御社にしかできない喜ばれる仕事をたくさんしてほしいです。
林社長さんのハーレー姿、男の中の男といった印象です!!
私も頑張って目指したい姿ですね。