最初の改修は工期13年の大工事
――当時の工事の内容は?
澁谷 特に洪水被害がひどかった下流部22km、河口から二子橋上流までの区間において、国直轄のよる工事が、1920年から本格的にスタートしました。主に川を掘削し、堤防を建設し、川崎河港水門や六郷水門なども造った、13年間にも及ぶ大工事でした。
この工事では、東京ドーム6杯分の土砂を掘削し、造った堤防の長さは両岸合わせて40kmという規模でした。総工事費は当時の金額で約1,100万円、現在の貨幣価値に換算すると約58億円にも上ります。
その後、「高潮工事(河口~六郷橋、1966年~)、「多摩川上流工事」(二子橋~日野橋、1932年~)、「多摩川上流工事(2)」(日野橋~61.8km、1969年~)、「浅川改修」(高幡橋~南浅川合流地点、1969年~)、「大栗川改修」(多摩川合流点~1.1km、1972年~)、「高規格堤防工事」(河口~日野橋、1989年~)と、脈々と工事は続けられ、今日に至っています。

かつて「暴れ川」だった多摩川
――今では、多摩川に「暴れ川」のイメージはありませんが。
澁谷 決してそんなことはありません。1974年9月1日には、台風16号が関東地方を襲い、二ヶ領宿河原堰にて堤防決壊280m、流出家屋19棟という被害をもたらした「狛江水害」が発生しました。
一週間にわたって続いた狛江水害ですが、この水害の教訓を後世に伝えるため、「多摩川決壊の碑」も建立されています。

「アミガサ事件」の決起の場所となった八幡大神内に記念碑が建立されている。
――100年間の改修工事では、現場の技術者が果たした役割も決して小さくはないと思います。
澁谷 厳しい環境の中で施工に携わっていただいてきたことに感謝しています。特に、様々な住民の要望に応え、整備してきたことには頭が下がる思いです。
京浜河川事務所は、これからも建設会社と手を取り合い、未来に向けて多摩川を管理していきたいと思います。
甚大な汚染から甦った多摩川
――高度経済成長期には、多摩川の環境悪化も社会問題となった。
澁谷 高度経済成長期は、環境悪化・渇水などの問題もあり、多摩川は今のような自然豊かな川ではありませんでした。家や工場から出る排水で多摩川は汚れ、大変な時期を迎えたこともありました。
そこで、自然保護活動家や学識経験者などで話し合い、市民と行政の直接対話による環境整備に本腰を入れ、1980年に全国初の河川環境管理計画として「多摩川河川環境管理計画」を策定しました。
「多摩川河川環境管理計画」では、野球などのグラウンドの人工系空間と自然を保全するための自然系空間に分けており、多摩川を利用する人はこの計画を遵守しなければなりません。
――ほかにはどんな取り組みを?
澁谷 多摩川は取水のために堰も多いため、東京湾の魚がのぼっていけなかった課題もありました。
そこで1992年に国土交通省から、「魚がのぼりやすい川づくり推進モデル事業」に多摩川がはじめてモデル河川に指定されました。そこで堰などに魚道をつくり、今は小河内ダムのところまで東京湾から魚が遡上しています。
1997年には河川法改正があり、住民と対話しつつ河川管理をしていくこととなりましたが、流域住民と対話を重ねた結果、2001年に「多摩川水系河川整備計画」も策定しました。治水・利水・環境はもちろんのこと、施設整備計画、維持管理や利用のルールなどの対策も含んだ川づくり全般の計画です。
――取り組みの成果はどうでしたか?
澁谷 おかげさまで、ここ10年の多摩川の水質改善が著しく、環境が回復してきております。来年の東京オリンピック・パラリンピックを見据えて、回復した多摩川をアピールしていきたいです。
多摩川の流域内人口は約400万人にも及びますが、この大都会を流れる川でこれだけ自然豊かな川はそうめったにありません。歴史的にも万葉集にも歌われた歴史ある川でもあり、昔の自然環境を保持しながら雄大に流れていることは世界的にも素晴らしいことです。
水質改善を成し遂げたのは、国土交通省だけではなく、流域住民や流域自治体のご協力とみなさんの多摩川に対する思いだと思っております。
このタイミングで決壊するなんてね
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