パルコやニチイ、ダイエーなど、様々な商業施設を手掛ける
――鹿島建設にはどういう経緯で入社されましたか?
奥平与人氏(以下、奥平) 私が大学院生だったとき、まだ学生運動が華やかだった時代のことです。建築家の先生のゼミに入っていたこともあり、当初はゼネコンに入る考えはなく、あるアトリエ設計事務所で修業する予定でした。
ただ、当時お付き合いしていた女性と結婚することになり、周囲からも大手で月給が出るところに就職して欲しいと言われまして。
そんな折、鹿島建設の設計部長自らが大学にスカウトに来て、ゼミの先生からも「奥平くん、会ってみなさい」と勧められたので面談してみたら、その場で鹿島建設への内定が決まりました。
――商業施設を手掛けられるようになったのはいつから?
奥平 設計要員として建築設計本部に配属され、入社から1年ほど経った頃、パルコの商業施設の社内コンペがあったんです。
当時はまだ、鹿島建設では商業施設グループが確立していなかったので、人材集めのためにコンペを実施していた背景があるんですが、応募してみたところ上司から「お前、パルコのチームに入れ」と言われて、それからはずっと商業施設一筋ですね。客先が決まっている実施設計ではなく、提案型の営業設計を約10年間手掛けていました。
――大変だった思い出はありますか?
奥平 お客様は保有されている土地に対してハードな条件を求められます。最初にイメージ図を示した上で、「この土地には、こういう商業施設を建設すればメリットがありますよ」「お客様の持っている土地であればこういう商業施設が望ましいです」ということを、A2の厚いミューズボード10枚に提案内容をテーマ別にわかりやすくプレゼンすることを心がけていました。
このような形で、毎週テーマを決めてプレゼンを実施していたのですが、徹夜による疲労から肺に穴が開いてしまって、2か月間休みを取ったこともありましたね。
そうこうしているうちにションピングセンターやスーパーなど、本格的な商業施設の設計も手掛けるようになりました。当時のダイエーをはじめとする多くのスーパーなどとお付き合いを深めていきました。
――その後は、どのような商業施設を手掛けられてきたのでしょうか?
奥平 かつて存在していたニチイというスーパーから「軽装備店舗を建設したいからサポートしてほしい」との話がありました。その際、「ハード面は任せるけれど、毎回同じ坪単価で計算できるようにしてくれ」との要望もあったんです。
そんなことを言われても、建設する土地によって坪単価は変わりますから、作業としては大変でしたね。それでも正式提案することになり、その後はしばらくニチイの軽装備店舗の仕事が続きました。
ニチイはその後、旧マイカルグループ を経て、現在はイオングループになっています。マイカルグループは「マイカルタウン」という街づくりも行っていたので、私の仕事も商業施設から街づくりへと展開していきました。

愛知県新文化会館郡設計コンペ(名古屋)。1987年 一般公開コンペ優秀賞受賞。歴史的都市軸の上に劇場・シンフォニーホール・図書館等公共施設を立体的に配置し、人の流れと溜りをハイテク技術で表現した大規模複合文化施設。
同時期に、自由が丘の小さな店舗で、(一社)日本商環境設計家協会(JCD、現・(一社)日本商環境デザイン協会)のデザイン賞で入賞したことがあるのですが、それ以降は建築家やインテリアデザイナーの仲間との交流も増えていきましたね。

シェルガーデン(東京)。1983年 商空間デザイン賞受賞。
――施工側との調整で苦労したことは?
奥平 昔、現場所長の権限が特に強かった時代がありました。その時は、色々な現場の現場所長とやりあいましたね。
ただ、丁寧な説明をすれば、意見が通ることが多かったですね。東京メトロ・銀座線の稲荷町駅近くのペンシルビルを設計した時、オーナーには気にいっていただいたのですが、所長からはなかなか理解が得られなかった。
そこで所長に分かりやすいよう精巧な模型をつくって説明すると、「分かった。つくってやるよ」と言ってくれたこともありましたね。

上野三生ビル(東京)。1992年。
いくら口を酸っぱくして重要な事を説いても下請けがアホだとどうしようもない。