「東京の渋滞解消」を至上命題に建設された首都高
――まずは日本橋地下化までの経緯を。
諸橋室長 首都高速道路(以下、首都高)の構想自体は戦前の1938年からありましたが、戦争で凍結された後、戦後しばらくしてから建設の検討が再開されました。
一部メディアでは、「1964年の東京オリンピックのために建設された」という報道がありますが、それは誤りであって、「東京の渋滞を緩和する」のが本来の目的でした。
戦後の東京は、街路や舗装がほとんど整備できておらず、グジャグジャで、そこに自動車が増えてきたので、シッチャカメッチャカの状態でした。昭和40年頃には、あまりの渋滞ぶりに「危機」という言葉すら使われました。そういう中で、首都高建設が進められていたわけです。
1957年に建設省が首都高の基本方針を決定し、1959年に首都高速道路株式会社の前身となる首都高速道路公団ができ、都市計画決定も行われました。
ちょうど同じ年に、東京オリンピックの開催が決定しました。当初の計画延長は71kmでしたが、東京オリンピック関連道路として、オリンピック開催前までに約33kmが整備されました。
首都高は、東京の渋滞の解消のため、東京の街路として建設されたんです。「高速なのに、なんで60km/h制限なんだ」とよく聞かれますが、「国幹道(国土開発幹線自動車道)」としての高速道路ではなく、あくまで街路だからです。当初の計画では、山手通り(環状6号線)の内側を連続立体交差にする構想でした。
その後、国幹道と接続されたのですが、当時は放射線しかなかったので、まるで国幹道の一部のような使われ方がされてしまいました。その結果、今度は首都高で大渋滞が起こるようになってしまいました。平成に入ってから、中央環状線やレインボーブリッジなどが整備されたわけです。
「オリンピックをやろうというときに、建設反対なんてヤボだ」
――首都高は「渋滞の解消」が至上命題だったんですね。
諸橋室長 現在ある日本橋は1911年に完成しました。日本の道路元標があって、日本の道路網の始点になっており、大変土木にゆかりの深い場所です。1963年、この日本橋の上に首都高が架かりました。
この区間は、首都高ネットワークの中心でもあります。都心環状線は「都心部のロータリー」で、郊外からやってくる車を処理する出入り口の集合体なんです。日本橋はこの都心環状線にあるわけです。日本橋の区間は、東京オリンピックでも重要なルートでした。
日本橋の上に首都高を通すことに対しては、建設当時から新聞などである程度の反対はあったようです。ただ、地元の方々は「国を挙げてオリンピックをやろうというときに、建設に反対するなんてヤボだ」ということで、容認していただいていたようです。
当時はとにかく、「東京の渋滞を解消する」ことが至上命題だったので、施工スピードが求められたと聞いています。時間のかかる用地買収を伴うルートではなく、運河や幹線道路などの公共空間上のルートを利用しました。
銀座付近では、築地川を干上がらせて、河川の中に道をつくりました。現在の擁壁は当時の護岸なんです。日本橋に首都高を通す際、日本橋川を干上がらせて、日本橋の下を通す案もあったようです。
ただ、ここの日本橋川は神田川とつながっていて、治水上、日本橋川を干上がらせることはできなかったので、やむなく日本橋の上に架けることになりました。ところが、実際に橋が架かると、景色が激変してしまったので、反対する声が上がりました。