都市部で規模の大きな公共事業の仕事をしたい
――公社に入る前は、どのような勉強をしていたのですか?
森下さん 三重大学で農業土木を学んでいました。農業土木を選んだ理由はとくになかったのですが、三重出身で地元の大学だったし、三重の大学にある唯一の土木学科がそこの農業土木学科で、なんとなく「公共事業や土木事業をやりたい」ということで、そこにしました。
研究室は土質関係でした。研究室の先生に「お前、どうだ?」と言われたので、公社に就職しました。就職した1990年ごろの名高速は、全体計画の3/8程度の完成で、どんどん新設の事業化や工事を進めていましたから。
――公社で具体的になにをやりたいという考えがあったのですか。
森下さん いや、そもそも公社がなにをするところかすらも、あまりわかっていませんでした(笑)。ただ、「都市部で規模の大きな公共事業の仕事をしたい」という思いがあったのと、技術的に難しい工事に興味もありました。
就職した当時は、あちこちで建設事業が進む一方、いろんな問題で都市計画にすら組み込めない路線もあったりで、「建設工事が永遠に続くんじゃないか」、「全線開通を迎える日が来るのだろうか」といった感覚でしたが、その分、仕事への期待感はありましたね。2013年に81.2kmの全線開通を迎えたのですが、公社設立後40年以上が経過してのことです。その間、先輩達は相当苦労されたことだと思います。
――公社ではこれまでどのようなお仕事を?
森下さん 採用の何かの折に希望を聞かれ、生意気にも「都市高速の企画の仕事がしたい」と答えたら、最初の配属先が企画課でした。「何をやるのかな」と思ったら、償還計画の仕事で、技術屋採用ですが、金利予測や利息計算、収入計算などの仕事でした。4年間。
イメージした企画とは違ったのですが、新規事業の採算がとれるか、どの順番に建設すべきか、料金をいくらにすべきかなどの長期的な事業の要づくりの仕事で、後々考えると、若いころから広く長期的な視点が身につくなどその後の役に立ちました。まだまだ道路を延長する時期で新規候補路線も多く、やりがいがありました。
入社5年目に、ようやく技術屋の仕事につけました。都心環状線、東山線、小牧線の現場工事を3年ほど担当しました。土木本来の仕事だし、描いたモノがどんどんカタチになっていくわけですから、楽しかったです。
工事最盛期のころで、トンネル、橋梁下部、鋼橋架設など、3路線の異なる現場や工種を同時に担当させてもらいました。いまの公社からは考えられないことで、濃縮した経験が積めました。現場の次は、設計課で、実施設計のほか、耐震実験や基準づくりなど6年担当しました。課の名称がそのまま「設計」という課は珍しく、当時、全国でも当社だけだったと思います。
技術力の集約のイメージもあって、そのことが職員の誇りでもありました。全線開通が近づいた頃には残念ながら設計課は消滅しましたが。その後、保全部門に移り、耐震補強の設計、アセットマネジメント、アル骨対策など5年行いました。
現場工事担当から通算して14年間、構造主体の仕事を担当していたので、このまま、構造分野に従事させてもらえるのかと思っていたところ、また償還担当に戻されました。当時、「名高速の料金が日本一高い」と揶揄されていて、知事・市長の100円値下げ公約を契機に、料金値下げを検討する日々が続きました。なんとか社会実験で特定の時間帯に限って値下げが実現しましたが、私は6年間異動できませんでした。
その後、維持担当に異動した途端、10年に一度の大雪があり長期の除雪対応に苦慮したりもしましたが、その後は管理者職として大規模修繕工事や防災、環境など短いサイクルで異動し、2019年4月から今の職場に来ています。
土木に進みたくても反対されて断念してしまった者です。
素晴らしいお話をありがとうございました。