埋立て工事現場での生死を分けた判断
2011年3月11日。その日、金戸さんは現場代理人として石巻漁港の埋立て工事現場にいた。地震発生直後、「ドーン」という大きな音とともに、岸壁部分と道路部分に地割れが起き、海水が割れ目から噴出した。その光景を目の当たりにした金戸さんは、「この世の終わり」だと感じた。
この時点では、状況を飲み込めず、津波が発生するかどうかも把握できなかった。だが、「ここに居たら危ない」という思いが先行した。即座に全作業員を連れ、避難場所である日和山への避難を指示。県外から働きにきていた土地勘のない作業員も多く、さらに当日は雪も降る中での避難となったが、全員が避難経路を間違うことなく、いち早く日和山に到着。10数人全員の命が助かった。
震災当日、誰よりも真っ先に津波の被害を受ける場所にいた。もし、判断が少しでも遅れていたら、津波に巻き込まれていただろう。自身だけでなく、大勢の作業員たちの命を救った英断だった。

北上川河口を遡上する津波(H23.3.11 PM3:40頃。日和山より撮影) / 提供:丸本組
だが、金戸さんは当時を振り返ると、今でも「ゾッとする」という。
震災発生2日前の3月9日、最大震度5弱の地震が発生。津波注意報が発令された。注意報の発令に伴い、あらかじめ有事の際に避難場所として決められていた日和山に避難を行ったが、県外から来ていた作業員が道に迷い、はぐれてしまったのだ。
全員が避難場所に到着したときには、避難開始から1時間以上が経過していた。危機感を抱いた金戸さんは、すぐに避難経路を全体に再共有した。これが功を奏した。

石巻港の被災状況(H23.3.20) / 提供:丸本組
「もし前震が発生していなければ、地元の作業員以外は津波の被害に遭っていたと今でも思う」と話す。
建設業界は作業員が定期的に入れ替わるため、全員に有事の際の避難経路を周知徹底させることは難しい。だが、それでも常日頃から粘り強く避難の重要性を伝えることが、現場の管理を担い、作業員たちの命を任される建設技術者にとっていかに重要であるかを学んだ。今も、携わる現場では定期的に避難場所へ働く皆を連れて、経路の確認を行っている。
とめどなく運ばれる震災廃棄物の受入れに奔走
無事に避難は完了したが、通信網が混線し、本社と連絡は取れなかった。「落ち着いたら、事務所に戻ろう」と考えていた直後、津波が町を襲った。冠水し、すぐに山を下ることはできなかったが、発災から2日後、事務所に戻り、宮城県や石巻市からの要請に応じて、応急復旧を開始した。

石巻市中央町被災状況(H23.3.15) / 提供:丸本組
まず担当したのは、自衛隊・警察の捜索時に出る災害廃棄物の受入れだった。奇しくも、発災当時に金戸さんが担当していた埋立て工事現場が、災害廃棄物の置き場となった。
1日に300台もの受入れがあり、車両系建設機械5台以上使用し、施工を行った。事務所に寝泊まりしながら、自衛隊をはじめ他業種の人とも打ち合わせを行い、受入れの調整を続けた。

災害廃棄物処理の様子(石巻市長浜付近) / 提供:丸本組
自社も大きな被害を受けた中で、先陣を切って復旧に当たった丸本組だが、すぐに復旧作業に当たることができたのには理由があった。
東日本大震災以降、その重要性が広く認識されだしたBCP(事業継続計画)だが、丸本組では「人命第一」を基本理念に、早期の事業再開と公共インフラ復旧対策に迅速な対応ができるよう、震災以前からBCPを策定。自家発電設備や衛星電話・無線、備蓄食料等を整備していた。
当時、あらゆるインフラが破断した暗闇の中で、石巻市民に希望の光を照らす拠り所にもなった。

丸本組 災害対策本部内のホワイトボード(3月15日)。「今居る人でできる最大限の仕事」のもと、役割分担を行った / 提供:丸本組
東方大震災で家族を亡くしたのほ彼だけではないし、東北の業者は官民一緒に同じ思いでこの10年を生きて来ました!
1つの会社だけを取り上げるのは提灯記事ですか?
普通に考えて全部の企業を取材される方が難しいでしょう?当日の事を話したくない企業や人だっているでしょうし。なぜそんな考えしかできないのか不思議でならない
意地で復興するのは良いけどさ、昔からの土地の伝承で何度も津波に襲われてる土地じゃなかったですか?
愛するのは構わないけど防潮堤どうこうじゃなくてさ、津波にさらわれない安全な場所に居住区を作るべきじゃないの?