グリコンシリーズ最終回【荒井明夫 代表取締役】
グリコンシリーズ最終回は、第1弾で登場してもらったグリーン・コンサルタント株式会社(以下、グリコン)の荒井明夫さんだ。
荒井さんは、株式会社NIPPOの前身の日本鋪道株式会社に入社。以来45年間にわたり、首都高速道路をはじめ、難施工現場で陣頭指揮を執りつつ、新技術の開発などにも辣腕を振るってきた。自他ともに認める「舗装のプロ」だ。
前回はグリコン社長としての登場だったが、今回は「舗装屋」として登場してもらい、その半生を振り返ってもらいながら、舗装屋としての思いを語ってもらう。
グリコンシリーズ第1弾【荒井明夫 代表取締役】の記事はコチラから
辞めた先輩の後釜として、日本鋪道に入社
――ご出身は?
荒井さん 東京の武蔵野市です。
――学生のころはどんな感じでしたか?
荒井さん 父親が配筋工だったこともあって、なんとなく建築関係をやりたいと思っていました。ただ頭が悪かったので(笑)、工業高校へ行くことにしましたが、志望校に建築科と建設科があり、中学の先生聞くと「たぶんスケールが違う程度だろう」といわれ、「建築科は倍率が高いから、倍率の低い建設科にしとけ」と言われ受験して入りました(笑)。
母親が、安定しない職人の仕事を嫌って、再三「公務員になれ」と言うので、高校3年になるときクラス分けがあり「設計コース」を選びました。地元の武蔵野市役所を受けようとしていたとき、先生から「日本鋪道に行ってくれないか」と言われたんです。私の1年先輩が日本鋪道に入社したのですが、半年で辞めてしまったんですね。学校として困っていたところに、私に白羽の矢が立ったようです。思いがけないカタチで日本鋪道に入社したわけです。
34才でとった技術士が人生の転機に
――日本鋪道ではどのようなお仕事を?
荒井さん 入社したら「測量して道路をつくるのかな」と思っていたら、これも思いがけず、「試験屋になれ」ということで、技術研究所というところに配属されました。研究所なんてアカデミックなところで、最初は戸惑いましたね。でもよくよく考えると、当時は高速道路の工事も多く、アスファルト合材工場もドンドンつくっていたころだったので、品質管理要員が足りなかったのだと思います。
そこから10年近く、全国の高速道路や空港の現場品質を担当しました。その後の4年ほどは研究開発の部署にいました。
私のサラリーマン人生の転機になったのは、34才で技術士に合格したことですかね。当時社内最年少の合格でした。これで会社の私を見る目が変わったんです(笑)。「コイツ、なかなかやるじゃないか」と。
そして36才で試験所長に抜擢されました。当時、社内的には試験所長というのは50歳位でなるのが普通でしたし、しかも一番大きな首都圏の支店の試験所長です。技術士に合格したことで、会社の評価がガラッと変わったことを実感しました。
ちなみに、私の合格をきっかけに、あいつが受かったんならと思ったか、多くの社員がこぞって技術士を受験するようになりましたので、NIPPOの技術士数が多いのは少なからず私の成果だと思っています(笑)。
――なぜ技術士を取ろうと思ったのですか?
荒井さん 技術士補という資格ができた年に、自分は出張していたんですが、先輩が私の分まで願書を取り寄せてくれていたので、受けてみるかと。そしたら、たまたま合格したんです。じゃあということで、ついでに技術士の試験も受けようかということになりました。「受かるわけないだろう」と思っていたのですが、受かってしまったというわけです。その前にもいろいろ資格を取っていました。実は私、この手の資格試験は一度も落ちたことがないんです(笑)。
――それは素晴らしいですね。
荒井さん たぶん「満点を取ろう」という気がないからだと思います(笑)。60点取れば良いわけですから。
――技術士を取ってどうですか?
荒井さん いろいろと自分の視野も広がったので、取って良かったと思っています。
――社外の見る目も変わったでしょう?
荒井さん そうですね。自分に対する評価は、社内だけでなく、社外の評価も大事だということに気づいたのもこのころです。直接的な利害関係のない第三者であるお客様から「彼は良いよ」と言ってもらうことは、スゴく大事なことです。会社の上司は、目に見えるところしか評価できませんからね。ですから部下を持つようになってからも、部下を第三者がどう見ているかを重視するようになりました。
NIPPOの技術部門の責任者まで上り詰める
――試験所長の後はどのようなお仕事を?
荒井さん 支店の技術課長、本社の技術課長をやって、支店の技術部長になりました。技術部長になったとき、母が大変喜んでくれましたが、その母もその年の暮れに亡くなりました。
首都高の現場でコンクリートを打設しているときに、秘書室長から「社長が会いたいと言っているので本社に来るように」と電話を受けて、2日後に行くと社長から執行役員、総合技術部長にすると言われ、青天の霹靂という言葉は知っていましたが、自分がそれを人生で使うとは夢にも思いませんでした。
そこから、常務執行役員、技術副本部長、取締役常務執行役員技術本部長を経て、昨年6月にNIPPOを退職し、グリコンの社長に就任しました。
記憶に残る研究開発
――NIPPOでは主に技術、開発畑をやってきた感じですか?
荒井さん そうですね。若いころは、コンクリート舗装を多く手掛けた関係で、「コンクリート舗装の専門家」的な位置づけでしたが、支店に転勤してからは、首都高や東京都を担当したことで、鋼床版やコンクリート床版の橋面舗装を多く手掛けるようになりました。
橋面舗装分野の民間技術者としては、「第一人者になった」という自負があります。本社の技術部門の責任者となってから、過去の経験と人脈に助けられ、また自らもSIPに参画するなどして、多くの橋面舗装技術開発の陣頭指揮をとり、開発を行って成果を上げました。
今年度の土木学会技術開発賞を受賞したPCM舗装は、役員をやりながら自らの研究テーマとしたものです。
――思い出に残る研究開発はありますか?
荒井さん 本社役員時代に関与した重機の自動停止システムの開発ですね。開発のきっかけは、新入社員時代からよく知っていた社員がローラに轢かれて亡くなったことです。これを受け、部下に対し、期中テーマそして開発を指示しました。
すると、わずか半年で画期的な「WSS(Worker Safety System)」をつくり上げてくれました。システムの原理はRFIDを活用し、「知らせる技術」から「止める技術」へ変えたもので、部下の頑張りが思い出に残る技術開発でした。
WSSの「W」は、亡くなった社員の頭文字をとったもので、社員への「鎮魂」と「あなたを忘れない」という意味を込めました。