順調だった経営状況から一気に仕事ゼロに
大きな可能性を感じる建築手法。一方で、従来型の仕事でも多くの案件を抱えており、山中代表は両者の矛盾に引き裂かれていく。
「オープンシステムとそうでない仕事を並行してやっていくのは無理があると結論しました。そこで当時付き合いがあったゼネコンや工務店一社一社に、“設計のお手伝いができなくなります”と挨拶しに行きました。“そんなやり方が成り立つわけないぞ!”などと色々言われましたね」。
当然、新規の受注はゼロに。半年間で手持ちの仕事が底をついた。当時、山中代表の他に社員は3名。未曾有のピンチだった。なぜあえていばらの道を選んだのか。山中代表はこう語る。
「賭けみたいなものです。ただ、勝算はありました。どう考えても、この手法の方が優れている。だから、最後は必ず勝つ」と。
仕事がないおかげで有り余る時間は、オープンシステムの説明文の執筆や飛び込み営業に費やされた。また一見、やけっぱちとも思えることを山中代表は行う。社員を引き連れてヨーロッパ視察旅行を敢行するのだ。「私は元来、楽天家なのできっとすぐに忙しくなるだろうと思ったんですよね(笑)」。実際、帰国するとすぐに仕事の依頼が舞い込んだ。
オープンシステム黎明期の困難
その依頼は酒の量販店からだった。山中代表の腕が鳴った。
「建築業者の見積もりは約5000万円。一方、専門業者の見積もりを集計したら約3500万円になりました。大幅に予算を抑えながらも無事に完成すると、依頼主から喜ばれましてね。お店に“この建物はオープンシステムで建てられました”と応援の看板を掲げていただくほどでした」。
以後、山中代表は主に住宅でオープンシステムによる建て方を追求していく。当時は今よりもオープンシステムのやり方が浸透していない時期だけに大変なことも多かった。
「専門業者一社一社に“オープンシステムとは何か”ということを根気よく説明し続けました。それと設計事務所の設計士は実際に現場でどの業者が、どのような業務内容を、どのくらいの時間をかけて行っているのか概略しか知りません。全てを知りたかったので連日、朝から晩まで現場を見ていましたね」。
専門業者を巻き込み、現場で知見を広げ、仕組みや制度を整えることでオープンシステムは少しずつ形になっていった。ユニークな取り組みだったため、業界専門誌から取材を受けることもあった。やがて90年代後半から2000年代初頭にかけて、オープンシステムは一気に知名度を上げていく。ブレイクするのだ。