降ってわいたブレイクと全国組織の結成
きっかけは日経アーキテクチュア創刊20周年記念号「現代のすご腕」で、山中代表が9人の建築家の一人に選ばれたことだった。この記事が日本建築学会PM・CM特別研究委員会の目に留まり、日本建築学会のシンポジウムで事例発表することに。他の設計事務所に技術やノウハウを提供する必要性も生じ、オープンネット(現イエヒト)というオープンシステム推進のための組織を設立した。
そんな折、テレビ東京の「ワールドビジネスサテライト」の取材が入り、「建築家たちの建築革命」と題した特集が組まれて放送。また、建築情報誌CCIで「オープンシステムって何?」という連載を山中代表が持ったり、その連載をもとに『価格の見える家づくり』という書籍を出版したりと目まぐるしい状況が続いた。さらに、NHKの「クローズアップ現代」でも取り上げられた結果、反響が反響を呼び、全国組織は一気に拡大した。
山中代表は自らの設計事務所を離れる決断を下す。「この頃、山中設計のスタッフに“私を死んだものと思って仕事を進めてくれ”と伝えた記憶があります」。山中設計の運営をスタッフに任せ、山中代表は全国組織の構築に奔走する。
雑誌出版への挑戦が挫折に終わるまで
北は北海道から南は沖縄の石垣島まで。山中代表は文字通り、東奔西走していた。オープンシステムの創始者である。全国に広がるイエヒト会員から引っ張りだこだったのだ。「2001年のことでしたかね、その頃は半年間で47都道府県全てを回るような生活でした」。
その後、山中代表は誰もが予想していなかった次なる一手を打つ。雑誌の出版だ。これまでにない建築手法ということは、これまでにない新しい建築雑誌も作れるということ。ビジネスとしても成立するように思えた。
「全くの素人でしたが“新しい雑誌を作りたい”という一心で、雑誌『イエヒト』創刊にこぎ着けました。編集長は私。編集長自ら全国を取材で駆け回り、執筆を行いました」。ところが、販売部数は低迷。出費も莫大で継続することができなくなり、雑誌『イエヒト』は3年であえなく休刊に至った。
「オープンシステムを広げるのだという使命感に燃えていましたからね、休刊後は燃え尽き症候群に陥りました。そのときに思いました。オープンシステムの認知度は確かに広まって全国組織もできた。でも、あれは偶然の成功でしかなかった、と。それを自分の力だと錯覚してしまったんです。振り返ってみれば、雑誌の出版もかなり甘く見ていましたね」。
ところが、そんな失意の山中代表を奮起させる依頼が舞い込む。