35才で社長就任し、財務状況の改善に邁進
28才で帰郷。最初の仕事は経理総務関係の管理だった。当時の経営状況はあまり良くなかった。100%公共事業、土木のみの受注で、受注に波があった関係で、財務状況は安定せず、借金が多かった。現場監督見習い、専務を経て、35才で社長に就く。売上げに対する借り入れの比率が大きく、マイナスからのスタートだった。
当時35才という若さの建設業社長は珍しかった。自分より一回り以上年上の建設会社社長たちからは「いろいろと厳しい洗礼を受けた」が、「若いうちからいろいろな経験ができたことは大きな財産になっている」と言う。「父親が借金を残してくれたことを今では感謝している」とも。「もし、借金がなかったら、もっとゆるい経営をしていた」と振り返る。現在、借金はほぼゼロ。財務状況は改善された。
社長になってから、建築部門を設置した。客から「技術管理能力や会社の信用があるのだから、建築もやったら?あなたのところなら、初心者マークでも仕事をお願いしてもいい」と言われたのがきっかけ。土木は、毎年ゼロからのスタートで、かつ受注を伸ばすのが難しいが、建築の場合は、努力の積み重ねにより、年度をまたいだ事業の積上げをすることが可能。安定した仕事量の確保がねらいだった。一方で、「客の期待を裏切らず、本当に良いものを作らなければならない」というプレッシャーもあった。市内では、有数の建築会社にまで知名度を認知されるまでになったが、「理想の建築会社になるまでには、まだまだやらなくてはならないことが多い」と語る。
経営手法の限界を悟り、経営者として成長
「不自由を常と思えば不足なし」――最近目にした徳川家康の言葉だ。「ズシリと胸に応えている」と言う。昔は、社員に対して「なんでこんなことができないんだろう」と思うことが多かった。社員から「社長は理想が高い」と疎まることもあったが、それがここ2年くらいのうちに厳しさが軟化。部下からも「最近は短期で物事を見なくなりましたね」などと好意的な反応が多くなった。「経営者として、一つステージ上がったかな」と笑みを浮かべる。
「私が変わった理由は、借金がほぼゼロになって、経営に余裕が出てきたことが一つ。それと、自分の経営手法の限界を悟ったことが大きかった。そんなとき、自分を含め、人の人生ってなんなのかと思った。人が生を受けたのは、なんらかの役目がある。その役目とは、人としてのレベルを上げることだ、と考えるようになった。その結果、自分の中に、ウチの会社は、社員の現世でのレベルアップのためにあるという視点が芽生えた」と自己分析する。
経営面で、特に意識し始めたことは、「社員が人として成長するための器(会社)でありたい」ということ。会社発展、地域貢献、業界発展なども大事だが、それは目的達成のための手段に過ぎない。「人間としての社員の成長を目的とした経営」を重視するようになっている。たとえ、会社にとって赤字になることでも、社員に得るものがあれば、それはそれで良い、真に得るものがあれば、次の期には必ず業績は反転する、と考えるようにしている。