建設一筋の男が環境を意識
別所社長は高校卒業後、京阪神の会社に勤め、昭和46年に米子の建設会社に入社した。以後、トンネルや下水道、港湾など各種工事に携わり、昭和60年からは生コン会社の工場長として4年間、経営を学ぶ機会に恵まれた。そして昭和63年5月、親会社から分社する形で南部町に株式会社ティー・エム・エスを立ち上げた。
「米子から少し離れたこちらにやって来たのは、町の誘致があったからというのもありましたが、親会社に頼るのではなく自助努力をしなければならないと思ったからです。実際、設立後は親会社の下請けもしませんでした。親会社がやっていないことをやろうという思いも強かったですね」。
時折しもバブルの頃。ゴルフ場や造成地、高速道路など当時は多くの仕事があった。やがて平成不況が襲い、建設業の企業数は「20年で半減しました」と別所社長は話す。
環境への思いが強くなったのもバブル後のことだ。「内燃機関を使う仕事をずっとしていましたからね。排ガスを出して地球を汚す一方ではなく、少しでも環境負荷を減らさなければと思うようになりました」。
建設工事で大量発生する木質廃材をどうする?
別所社長は建設工事や家屋解体で発生する木質廃材に着目するようになる。
「例えば、林道工事などを手掛けると、もう大量の木材が出るわけです。かつては燃やすこともありましたが、ほったらかしということもありました。この木材を何とかしてリサイクルできないかと考えました。あまりにももったいないと」。
その頃、米子の王子製紙が新しい炉を作るという知らせが。その熱源にRPFを使用すると高温になり過ぎてしまう。そこで緩衝材として木材に注目が集まった。「スギやヒノキ、マツなど売れるものは売り、雑木や根っこなど売れないものは破砕して、堆肥や燃料に変えるようにしました」。
2000年代初頭の頃は移動式で始めたこのリサイクル事業、2011年からは本社から車で20分ほどの場所に専用の中間処理施設を設置。木質廃材の受け入れや処理を本格的に行うようになった。
「今では南部町、近隣の米子市、伯耆町の一般ごみも受け入れています。堆肥に使えない解体廃材と自然物を分けてチップ化し、商品化することで再利用しています」。