「地図に残る仕事」に憧れ土木の世界へ
――土木を志したきっかけは?
見坂さん なぜ土木の道に進んだのかというと、親父が兵庫県の小さな建設会社に勤めていたからです。それで大学で土木工学を選びました。
当時は大学に入る時点で、土木なら土木工学科というふうに学科を選んで受験していたのですが、最近は地球工学科という何をやるのかわからない学科名なっていますけど(笑)。
「地図に残る仕事」という言葉がありますが、私はそういうところに憧れた世代です。
大学の研究室は耐震工学でした。大きな振動台の上に5階建てぐらいの建物をつくって、いかに揺れを抑えるかという研究をしていました。
ちょうど明石海峡大橋をつくっているころで、耐震性のある構造物ということで、研究室メンバーで見学に行きました。研究室の先輩が現場監督をしていたので、建設中の高さ300mの主塔の上に上がらせてもらいました。貴重な体験でした。
明石海峡大橋は、阪神・淡路大震災の被害を受けて、主塔が1mズレましたが、震災の2年後には予定通り開通しました。学生時代に見学した明石海峡大橋の影響もあって、長大橋に関しては思い入れが強いです。
国交省に行って「お前が日本を背負え」
――国交省を選んだ理由は?
見坂さん 大学院の修士まで行って、建設省(現・国土交通省)に就職しました。建設省を選んだのは、プランニングに興味があって、「自分が学んだ土木の知識を日本のために役立てたい」という思いがあったからです。
兵庫県庁も受けたのですが、研究室の先生から「お前は日本を背負うんだ。建設省へ行け」と言われて、建設省に入りました。
当時は研究室の先生が就職先を後押ししていました。「公務員を目指す人は国家試験を受けろ」、ゼネコンに行くなら「この会社とこの会社に何人ずつ」みたいな感じで、学生に就職先を勧めていました。
最近は、大学の先生が就職先に口出しをすることは少なくなり、学生が自らの意思で決めているようですが、私は昔のほうが良かったと思っています。学生にとって、どこに就職すれば良いか本当のところはなかなかわからないので。
――国交省ではどのような仕事を?
見坂さん 本省では、道路畑が長かったです。とくに印象深かった仕事は、小泉内閣のときに日本道路公団の民営化です。私は道路局高速道路課の課長補佐として、道路公団民営化にあたってのさまざまな実務を担当しました。
その後は、有料道路課の課長補佐として、民営化後のNEXCOの会社運営にも関わりました。「当時は本当に大変だった」という意味で、一番思い出に残る仕事です。
道路公団改革なので、民営化するだけでは意味がありません。民営化する以上、メリットを出さなければいけない。民営化によるメリットは、コスト削減やサービスの向上だと考えています。そのためのスキームをどうつくっていくか、公団職員にどう意識付けするかが一番苦労したところです。
私は、民営化して良かったと思っています。京都国道事務所長など出先も経験しました。