国家公務員試験に受かったのに「阪神高速はどうや?」
――就職活動はどんな感じでしたか。
広瀬さん 大学院1年生のときに、国家公務員試験一種(当時)に受かったんですが、そのときの大学の先生に「阪神高速道路公団(当時、以下阪神高速)はどうや?」と言われたんです(笑)。公務員試験に合格していたこともあって、推薦者としてちょうど良かったんでしょう。「じゃあ、公団への推薦お願いしますわ」という感じで、公団に就職しました。
――すんなり受け入れられましたか。
広瀬さん そうですね。「国に行きたい」という気持ちはありましたが、近くに両親のいる関西で働くのも良いかなと思いました。公務員の場合、どこに行かされるかもわからないし、自分のやりたいことができるかもわからないので。阪神高速なら、純粋に技術の仕事をやり続けられるだろうと考え、腹を決めました。
――阪神高速に入ってからどのようなお仕事を?
広瀬さん 今年度で入社32年目になります。最初の配属先は大阪建設部設計課で、関西国際空港に接続する4号湾岸線の設計をしていました。その後は、計画部で主に6号大和川線の路線決定に関する仕事をしたりとか、大阪管理部の現場事務所で工事監督をしたりしました。阪神淡路大震災のあと神戸にきましたが、復旧ではなく、7号北神戸線の建設工事を担当していました。
――いろいろ大変ではなかったですか。
広瀬さん 私は大阪から通勤していたのですが、夜遅くなってタクシーで帰るときでも阪神高速は使えないし、一般道は大渋滞で、それを延々と走って何時間もかけて帰ることもよくありました。
個人的には、もともと耐震工学を学んでいたので、震災を機に、内陸直下型地震に関するさまざまな研究が進んだことは、非常に意義深いことだったと考えています。震災以降、実際に構造物の耐震の考え方がガラッと変わりました。
「難儀」だった新神戸トンネル買取り
――出向経験は?
広瀬さん JICAの道路維持管理の専門家として、ニカラグアに8ヶ月ほど行きました。日本高速道路保有・債務返済機構にも出向しました。この機構は、旧日本道路公団の民営化後、道路と債務を保有し、貸付料をもとに債務を返済する独立行政法人です。
前職も、阪神高速の子会社である阪神高速技研株式会社に出向していました。阪神高速のコンサルタント部門を担う会社ですが、私の役職は企画部長で、経営企画、総務、人事、経理など社内のなんでも見る仕事でした。
――印象に残る仕事は?
広瀬さん 新神戸トンネルを買い取った仕事ですね。新神戸トンネルはもともと、神戸市道路公社が持つ道路だったのですが、神戸市が「阪神高速に売りたい」と言ってきたんです。阪神高速としては、新神戸トンネルを買い取れば、道路ネットワークが充実するし、しっかりした維持管理もできるということで、買い取ることになりました。私は担当課長ということで、やっていました。
ただ、自治体が建設した道路を買い取るのは、当時日本では誰もやったことがない仕事だったんです。そもそも制度も整っておらず、関係者も多いし、難儀な仕事でした。
先ほど大和川線の路線決定に携わったとお話ししましたが、この仕事も印象に残っています。今は堺市側の大和川沿いで建設を進めていますが、当時はどこを通すか決まっていませんでした。私は支障物件の数を数えたりしながら、いろいろなルートを検討し、今のルートが最適としてまとめました。
おたくは偉くて現場の現状知らんやろうけど、あんたらが雇ってくる委託監督が、保身で作らせる、無駄な書類。あれ何とかしてよ。竣工検査で見ることなく終わるものばかり、、、
それと偉そうな態度。ほんまもんの発注者が偉そうにしとるのは100歩譲ってガマンするけど、なんでクソ委託が偉そうにしてんだよ