建築家・辰野金吾も工学院大学の創設メンバー
――工学院大学の沿革は?
野澤康 1887年(明治20年)に帝国大学(現・東京大学)の渡辺洪基総長が中心となって「工手学校」を設立したのが、工学院大学のはじまりです。
「工手」という言葉は今では死語ですが、渡辺洪基の定義によると「将を助け、卒を導く下士官」。つまり生産現場における専門的な技術者を意味します。
当時も技術者の人材が不足していたことから、工手学校が創設されました。学校創設に際しては、東京駅や旧日本銀行を設計した建築家の辰野金吾も参加しています。
その後、1928年(昭和3年)に工学院と改名し、1949年(昭和24年)の新学制による工学院大学設置の認可を受けました。2017年に創立130年を迎えています。

工学院大学の八王子キャンパス。東京ドーム約5個分の広大な敷地に、大規模な実験施設や研究施設が整備されている。
――現在の学部構成は?
野澤康 建築学部、先進工学部、工学部、情報学部です。私が工学院大学に着任した1995年当時は、工学部のみの単科大学でした。その後、徐々に学科・コースが増え、それらをまとめる形で2006年に学部改組し、情報学部とグローバルエンジニアリング学部を新設しました。
そして建築学部を新設したのが2011年4月です。すでに建築系の学科は2つあり、生徒も300名ほど在学していたため、それらを再編する形で建築学部の創設に至りました。
日本初、建築学部を創設した工学院大学
――建築学部を創設した狙いは?
野澤康 「建築」の定義は幅広く、住宅以外にも商業ビル、工場、病院、学校など建築物の種類は多岐にわたります。また、小さな内部空間から街づくり、メンテナンス領域まで「建築」に含まれます。
これまで工学部の枠内にあった「工学部建築学科」のままでは収まりきれないと判断し、学科やコースを建築学部として再編しました。
一般的には建築を学んだ者は建築家になるイメージが強いですが、実際には構造や材料、デザイン、都市計画、施工管理など多くの領域において、建築のプロを養成しなければなりません。技術と芸術の高度な融合を目指す意味でも、建築教育の新たな構築が必要でした。
――建築の学問領域は広いですね。
野澤康 たとえば、建築史という学問がありますが、化学や機械工学において「歴史」を単独カテゴリーとして扱うことはありません。デザインについても、建築学には工学に収まりきれない種類のものがたくさんあります。
――建築学部を創設した反響はいかがでしたか?
野澤康 受験生が大学を選ぶ際、学部として建築分野の大きな領域をカバーしていることが1つの決め手になっているようです。
地方国立大学の建築学科では、10ほどの研究室しかないのに対して、工学院大学の建築学部では約40の研究室があり、分野が多彩であることに魅力を感じる受験生が多いです。

工学院大学の新宿キャンパスは駅から徒歩5分、地上28階地下6階建ての超高層ビル
また、ランドスケープデザインやインテリアデザインなど新たな分野を拡大したので、インテリアをコーディネートする会社への就職など、それまでの卒業生とは異なる道に進む学生も増えました。
ゼネコンからは、「工学院大学は、元から産業界とのつながりが強いし、これからもいい人材を輩出してほしい」と期待の声をいただいています。
息子は工学院に入れようかな(笑)
早速ですが、我が子も2018年卒で
情報デザイン学科でした。
バイト、単位、卒論、就活と大変だったようで
かなりの苦労もしたことと思います。
地方から行ったこともあり、親の私も、いろいろな面で想像以上に大変な時が多々ありましたが本人の頑張り?で、無事卒業して、念願のIT企業に就職し今も、努力をしつつ日々勉強しながら
頑張っています。
地元の就職にはつかない選択をましたが本人が決めた事。親としては暖く心配しつつも見守っていきたいと思います。
ついに降臨、わが母校!
ゼネコン、こういうとこに投資しようよ。お世話になってるわけだし。
素晴らしいです。ローカルファーストという言葉がありますが、30年後の理想的な未来社会を見つめ、弱者や社会的課題を共有しながら地域で繋がれたら最高です。具体性のない意見や言いたい放題から、学生さんが連携を通じ、地道に考える基盤作りがどんどん進んでいく具体的な形に触れた気がします。応援したいというより、具体的に一緒にやれると最高です。ISO26000の指標や、SDGsの未来につながる期待もあります。これから、応援させていただければと思います。頑張って下さい。