合言葉は「共Do」
——参考にした先行事例はあったのですか?
片山 一般社団法人化に関してはいろいろ参考にしましたが、ツタドボの運営に関しては参考事例はありません。土木技術者の集まりなので、広報に関しては素人ばかりでした。
広告業界やテレビ、新聞社などの「広報のプロ」の方々にも入ってもらいました。「そんなことやっているから、土木の世界はつまらないんだよ」などとアドバイスをもらい、われわれも勉強しながら、いろいろと活動してきましたね。
——ちゃんと「ダメ出し」してもらって?
片山 そうです(笑)。例えば、「何とか橋梁現場見学会」というイベントをやりたいんだけどと言うと、「興味のない人間は来ないよ」などと当たり前のことをズバズバ言ってもらえるわけです(笑)。
「そもそもイベント名が漢字ばっかりで、面白くない」というご指摘なんかもいただきます。土木関連のイベントって、どうしても固い表現になりがちですよね。そういう表現を見て、「訴求したいターゲットが不明瞭だ」というわけです。
——ツタドボの主な活動としては?
片山 毎年開催している全国大会など定番モノと、お声がかかったら実施する単発モノがあります。
——運営方針などはあるのですか?
片山 極力、多くの土木技術者の方々に関わってもらうことですね。われわれメンバー自身が伝えることも大事ですが、「俺たちも土木について伝えたい」という同志を増やすことに力を入れています。私はこれを「共Do(同、働、動、導、道)」と呼んでいますが、「共にやってくれる土木技術者」を増やしたいという思いで、活動しています。
例えば、一般社団法人日本橋梁建設協会(以下、橋建協)などとコラボし、昨年、木更津高専で「木更津鋼橋専門学校」を1日開校するというイベントを行いました。たんにイベントを行うのではなく、橋建協の方々にもイベントに参加してもらうなど、「共にやる」というスタイルにこだわりました。
このイベントをきっかけに、若手技術者の確保などを目的にした「みかんプロジェクト」が生まれました。人と人の関わり、つながりが生まれ、その輪が広がっていくことによって、土木が世の中に認知されていることを実感できる。これがツタドボの活動の醍醐味であり、目指していることですね。
——Youtubeチャンネルもやってますね。
片山 ええ。「えいすけ・おがしんのツタワルドボクTV」というチャンネルです。土木のいろいろなプロの方に出ていただいて、お話を伺うスタイルでやっています。
重機を動かすおっちゃんがうらやましかった
——土木に興味を持ったきっかけは?
片山 私は長崎出身なんですが、昭和57年の長崎大水害を経験しました。当時、私は小学校4年生でした。私の実家は川の横にあって、近くに橋もありました。水害により、橋に流木が詰まり、がけ崩れもあって、川の水が私の家に流れ込み、家の1階部分がメチャクチャになりました。
私や家族は2階にいて、救助されました。その後、川と橋の復旧工事が行われたのですが、私は実家の2階からその様子を見ていました。おふくろは、「ご苦労様」と言いながら、現場で働く人のためにお茶を持っていったりしていました。見ていて、重機を動かしているおっちゃんたちがカッコ良かったんです。それと同時にうらやましかったんです。
——うらやましい?
片山 ええ。クレーンやバックホウで豪快に作業している様子を見て、「よか〜」と思って、うらやましかったんです。それがきっかけで、土木に興味を持ちました。小学生のころから「俺、片山組つくるもんね」とか言ってました(笑)。
子どもの言うことなので、半分冗談でしたが、それがなんとなくアンカーになって、今に至っている感じがしますね。橋は橋で好きだったので、「どうせなら」ということで、橋を選びました。
——土木の勉強は大学から?
片山 そうです。九州工業大学です。研究室では耐震、振動に関する勉強をしていました。
——就職は?
片山 株式会社オリエンタルコンサルタンツ(以下、オリコン)に入りました。最初広島で、福岡に帰ってきて、10年ぐらい働きましたかね。民主党が政権をとった頃で、建設業は冬の時代を迎えていました。
「コンサルはもう先ないんじゃねえか」と思っていたところに、たまたま福北公社が求人していたので、転職しました。オリコンでは、たまたま鋼の橋梁の上部工の設計をやっていました。都市高速は9割鋼橋なので、ちょうど良かったんです。「橋梁の持ち主になるって、楽しそうだな」というのもあって、転職しました。
——「持ち主になる」という感覚だったんですね。
片山 ええ。「持ち主になれば、私が考える正しいものづくりが全部できるんじゃねえか」と思ってましたね(笑)。まあ、世の中そんなに甘くなかったですけど(笑)。
——オリコン時代は、メタルの橋の設計をメインにしていたのですか?
片山 そうです。私がいた当時は、まだ新設の仕事が多かったですね。
——思い出に残る仕事は?
片山 いろいろありますけど、東九州自動車道の北九州ジャンクションとかですかね。ジャンクション橋もですが、その手前の本線橋梁の拡幅を通行止めすることなく実現するという設計を担当しました。
単純な普通の橋ではないのですが、いろいろな細かなステップがあって、計算なども大変で苦労したんです。その分、いろいろな思い出が詰まった仕事になっています。
——オリコンでの仕事は充実していた感じですが、なぜ転職を?
片山 私が調子に乗っていたのが多かったですね(笑)。国交省などからいろいろ表彰を受けたりして、調子コイてたんですよ(笑)。
でも、会社の業績は年々悪くなっていて、給料は上がらないという状況の中で、「次は東京に行くしかない」という展開が見えていたり、いろいろな不安、不満が溜まっていたんです。
——そこに運良く福北公社の求人が舞い込んできたと。
片山 そうなんです。鋼橋ばかりって最高じゃないかと思って。
志は素晴らしいけど、まだ全然伝わってないですよ。
周りで知ってる人、会ったことないです。
聞いたことないwww
まさに、井の中の蛙。