不眠不休で被災現場の把握に奔走
――パトロールに行った職員は、何時頃に戻られましたか。
鈴木課長 北側の班が夜10時頃、南側に至っては夜中の2時に戻り、その後も不眠不休で被災現場の把握に勤めていました。職員が撮影した写真から、被災状況が概ね把握できたため、翌日12日の朝一番に三陸国道事務所へ赴き、事務所長との打合せにおいて、「大津波警報が解除されたら、道路啓開を開始します」と申し上げました。
ですが、事務所長からは「宮古市長からの依頼で、すぐにでも宮古市役所前の国道45号を啓開してほしい」と要請を受けました。
――大変な要請でしたね。
鈴木課長 ええ。この時点ではまだ余震が続いていましたし、宮古市役所の傍には閉伊川(へいがわ)という宮古湾に注ぐ川があり、水位が余震の度に変動していたため、予断を許さない状況でした。それに、私や職員が重機を動かして啓開するわけではありません。あくまで、命の危険を伴う作業を地元建設業者の方々にお願いしなければなりませんから。
ですが、少しでも早く緊急輸送路を確保することで救われる命があることも事実でしたので、地元建設業者に道路啓開を依頼しました。彼らの最初の回答は「即答はできません。一度、社に持ち帰ります」というものでした。
――忘れてはならないことは、「地元建設業者も被災者である」という視点です。
鈴木課長 当時、地元建設業者の方々の中にはご家族の安否が不明な方も多かったですし、ご自宅が津波に巻き込まれた方々もおり辛い立場にありました。
また、二次災害の危険性もありましたので、「(道路啓開を)本当にやってくれるだろうか」という不安があったことも事実です。このような状況下でも、最終的に「やります」とご決断いただいたことは、感謝に堪えませんでした。
道路啓開を妨げた障壁
――3月13日から、すぐに道路啓開に入ったんでしょうか。
鈴木課長 いえ。震災の翌日、12日の昼過ぎから実施しました。救援活動や支援物資を被災地に届けるためには、一刻の猶予も無く、特に内陸側と繋がる宮古市役所前の国道106号と国道45号の結節点は最も重要でした。
――道路啓開を行う上での課題はありませんでしたか?
鈴木課長 最初の課題は、国道106号を塞ぐように横たわっていた大型の船をどうするかでした。
――どのように対応された?
鈴木課長 大型の船を動かすには大きなクレーンが必要ですし、幸い宮古市役所が国道106号と国道45号の結節点にあり、両路線からの出入り口もあったため、「(車両を)市役所の構内を通らせよう」というアイディアが浮かびました。市役所に相談すると、「緊急車両限定で、市役所構内の車両通行を認める」という了解を得ることができました。
宮古市長から要請のあった市役所前の国道45号の道路啓開を、12日の夕方には完了しその後、自衛隊が被害の大きい田老地区に乗り込み、救援活動等が展開されました。
――初動で、国土交通省と地域建設業者の連携がスムーズに進んだ理由は?
鈴木課長 先にも話した通り、震災以前から東北地方整備局が各地の地元建設業者と災害支援協定を締結しておりましたし、宮古維持出張所では大津波警報発令時の対応として、通行止め対応や緊急資機材の確保を要請していましたので、ある程度事前の準備が整っていたように思います。
3.11発生時の現場がどうなっていたかが分かるとても良いインタビューでした。これを教訓に出来た防災マニュアルは素晴らしいものだろうなと思います。そう思うと同時に自分の地域はどうなんだろうと不安にかられました。今シーズン想定外の大雪でさえ除雪機能が麻痺しかなり社会生活に影響が出ました。役所からの指示も苦情が出たから除雪に出てほしいという指示とは言えないものでした。現実、雪を置く場所がなく排雪作業にかからないとどうにもならない状況でした。ニュースでは今後の対応会議が~とやってましたが建設業者(除雪作業を行う会社)の意見を聞いた形跡は無かったように思います。別記事でもあったようなクシの歯作戦のようなものは見えてないような気がします。非常に不安です。もっと横のつながりを持って良いものは取り入れてほしいです。きちんと頑張らせてほしいです。