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小竹興業株式会社 小竹和夫社長
「建築だけはやりたくなかった」
小竹興業のルーツは、小竹和夫社長の曽祖父が1895年に設立した小竹組にさかのぼる。
詳しい記録は残っていないが、宮大工を抱える大工一家として、江戸時代から商売を続けてきたらしい。昭和の時代になって早々に、祖父達兄弟が大工一家から建築会社として法人設立をした。
小竹社長は「建築屋の息子」として、生まれ育ったが、「家業を継ぐのは嫌だ」という思いから、早稲田大学法学部に進学する。
「不動産屋にでもなろうか」と就職活動を行っていたとき、当時会長だった祖父が病で倒れたという一報が届く。病院に見舞いに行くと、祖父から「小竹興業に帰ってこい」と一言。
すでに不動産会社から内定をもらっていたが、祖父の一言には逆らえず、不本意ながら小竹興業に入社する。
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小竹興業の社屋
小竹社長は「余命宣告された病人から、枕元で言われたら、断れない。うまくやられた(笑)」と振り返る。
一族役員を切り捨て、営業の報告は一切しない
小竹興業に入社後は、総務経理などの仕事を任された。
与えられた仕事は半日あれば充分こなせたので、残りの時間は「ゴルフなどして遊んでばかりいた」と言う。しょっちゅう「辞めよう」と考えていた。
転機が訪れたのは、1999年。それまで地元銀行や医者などのお得意さん相手の仕事を中心に、例年25億円程度の売上げをコンスタントに続けていたが、地域の景気が悪くなり、売り上げが15億円までに大きく減少した。
「このままだと、この会社は潰れるな」と考えていたとき、当時会長だった父親に呼ばれ、「お前、営業せえ」と言われる。仕事も適当にこなすだけで大半遊んで過ごしてきたが、その分人脈には自信があったので、何とかできるだろうと引き受けた。
ただ、その際、二つの条件を出した。一つ目が「父親をはじめとする大半の一族役員の退任」。二つ目が「営業の報告や相談は一切しない」というもの。「営業結果が気に食わなければ、すぐにクビにしてもらって構わない」とまで言い放った。
親父の返事は「それでかまわん」。さらに、「父親の従兄弟のうち、一番年下の専務を社長に、私が専務という体制でやる」と父親に提言し、新たな経営体制のもと、経営の大改革に乗り出した。
小竹社長、48歳のことだった。
原価管理の徹底って難しいよね
うちまだどんぶり勘定ですけど(笑)
こういう社長についていきたい。
こうやって経営努力してる地場の企業はたくさんあるね
こういう会社もちゃんとあるって広まることが人手不足が解消する近道かもね